湯治?島弥九郎事件

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長宗我部氏の軍団というのは、対抗勢力を次々に攻め滅ぼし、名家一条氏を追い払って土佐を統一し、やがて阿波・讃岐・伊予へと、軍を進めて四国を制覇する、野心的な集団である。

 島弥九郎事件は、長宗我部氏が安芸氏を滅ぼした後に発生した。このような時期、周辺国では警戒が高まっているだろう。本気で湯治を考える時期だろうか。できることなら、征服後の安全な時期がいいだろう。そしてもし湯治が本当なら、予告・挨拶など、事前に安全を確認した上で行動するだろう。しかし、記録には出てこない。それは、移動の真の目的を妨げるから、ではないだろうか。

 記録には、予告しておいたのに裏切られた、という悲憤はない。つまり、意思疎通なしで、偵察目的という疑惑を抱かせることを容認する状況の中で、事は起きたということである。

 海部(かいふ)氏は、古くは1352年の重要な時期に、京都の重要な地点で戦闘に参加している(注1)。
 また海部は、中世を通じて、盛んに近畿や京都と通交があり、1445年の、東大寺領、兵庫北関(現在の神戸港付近)への入港数は56回で、記録された港湾全体100余の中では10位、四国に限れば1位である(注2)。

 豊富な木材や「海部刀(かいふとう)」を産し(注3)、
 1500年代にも近畿での戦闘に参加している(注4)。
 
 那佐(なさ)は当時の大型船の拠点だったと思われる(注5)。

 探られたくない所に来た、投降しない不審者は、生かしておけないのが戦国の世の常だろう。

 湯治に向かっていた非力な人々に、海部氏が、問答無用で襲い掛かった、という島弥九郎の通説は、おかしいのではないか。
 「止むを得なかった」というのが、正当な評価ではないだろうか

     (注1) 平成7年版『海南町史』p188・189と、国宝東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)(大日本史料6篇

      (注2) 千葉国立歴史民俗博物館史料NO.16「兵庫北関入船納帳にみる港湾と物産」、
           林屋辰三郎編『兵庫北関入船納帳』中央公論美術出版・昭和56年
           1445年、阿波・土佐の主要港
  
      (注3) 海陽町立博物館

      (注4) 平成7年版『海南町史』

      (注5)海部の水運について

           近世の海部川の様子については、昭和46年版『海部町史』p102
           近世の那佐(なさ)湾については、同、p180あたりに記事がある。(那佐湾について)

                  1813年、大阪廻船29艘所有。 江戸時代にも、盛んに堺と通交があったようだ。そもそも、どうして行き先が大阪なのか。
                  徳島や阿南という、近い場所の方が自然なのでは?