湯治?島弥九郎事件
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長宗我部氏の軍団というのは、対抗勢力を次々に攻め滅ぼし、名家一条氏を追い払って土佐を統一し、やがて阿波・讃岐・伊予へと、軍を進めて四国を制覇する、野心的な集団である。
島弥九郎事件は、長宗我部氏が安芸氏を滅ぼした後に発生した。このような時期、周辺国では警戒が高まっているだろう。本気で湯治を考える時期だろうか。できることなら、征服後の安全な時期がいいだろう。そしてもし湯治が本当なら、予告・挨拶など、事前に安全を確認した上で行動するだろう。しかし、記録には出てこない。それは、移動の真の目的を妨げるから、ではないだろうか。
記録には、予告しておいたのに裏切られた、という悲憤はない。つまり、意思疎通なしで、偵察目的という疑惑を抱かせることを容認する状況の中で、事は起きたということである。
また海部は、中世を通じて、盛んに近畿や京都と通交があり、1445年の、東大寺領、兵庫北関(現在の神戸港付近)への入港数は56回で、記録された港湾全体100余の中では10位、四国に限れば1位である(注2)。
豊富な木材や「
1500年代にも近畿での戦闘に参加している(注4)。
探られたくない所に来た、投降しない不審者は、生かしておけないのが戦国の世の常だろう。
湯治に向かっていた非力な人々に、海部氏が、問答無用で襲い掛かった、という島弥九郎の通説は、おかしいのではないか。
「止むを得なかった」というのが、正当な評価ではないだろうか。
(注1) 平成7年版『海南町史』p188・189と、国宝
(注2) 千葉国立歴史民俗博物館史料NO.16「兵庫北関入船納帳にみる港湾と物産」、
林屋辰三郎編『兵庫北関入船納帳』中央公論美術出版・昭和56年
1445年、阿波・土佐の主要港
(注3) 海陽町立博物館
(注4) 平成7年版『海南町史』
(注5)海部の水運について
近世の海部川の様子については、昭和46年版『海部町史』p102
近世の
1813年、大阪廻船29艘所有。 江戸時代にも、盛んに堺と通交があったようだ。そもそも、どうして行き先が大阪なのか。
徳島や阿南という、近い場所の方が自然なのでは?