ペロ・ディエス情報
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的場著『ジパングと日本』p122より
日本発見後のポルトガル人の渡来に混じって、ペロ・ディエスというスペイン人が、1544年、九州に渡来した。
彼は、1545年後半から、ポルトガル要塞のあるモルッカ諸島のテルテナ島に滞在した
その時に、スペイン遠征隊長ビジャロボス(ビリャロボス)を、ティドレ島にたずねた。
1544年11月4日にポルトガル側に投降した、彼らの要請に応えるためである。
そこで語られた、ポルトガル人日本往来情報が、ペロ・ディエス情報と呼ばれるものである。
(的場著のこの部分では、いつ種子島へポルトガル人が来たか、を検討しているから「ポルトガル人情報」とされる。
しかし私の場合、ここでは、ポルトガル人に混じって「スペイン人」が日本に来ていた、という意味の方が重要と思われる)
*これは1542年第4回ヴィリャローボス隊員の、エスカランテの報告に記録されている。
この報告は、スペイン・セビリアの、インディアス文書館蔵。(的場節子著 『ジパングと日本』p134註)
*ウィキペディアには、
「ロペス・デ・ビリャロボスは1544年にアンボイナ島(アンボン島)の牢屋で死んだが、
残った乗組員は生き残り脱走してヌエバ・エスパーニャに戻った。」
とあるが、「ヌエバ・エスパーニャ」とは現在のメキシコである。
太平洋東行路がない段階では、インド洋・アフリカ南端経由で、さらにメキシコへと戻るしかない。
しかし、ヴィリャローボス隊のエスカランテ報告は、
メキシコ副王宛、1548年8月1日付け、ポルトガルのリスボン発(的場著p118)
で、スペインの公文書館にあるのである。
ウィキペディアの記事は出所不明。間違いか情報操作であろう。
*伊東章『マニラ航路のガレオン船』鳥影社2008では、
1546年2月18日、ポルトガル船でインドへ向けて出発。
しかしアンボン(まだモルッカ諸島)で、ビジャロボスは病死。
1548年に、インド経由でリスボンに帰還。メキシコ出発時370人が、生還者147人。(p76)
「伊東著によるビジャロボス(ビリャロボス)探検隊」
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@ペロ・ディエスは、中国人のジャンク船でシャム近海から中国東岸を北上し、双嶼とみなされるリャンポーに到着した。
そして南京まで足を運んだ後に、双嶼から155レグァの距離で北緯32度に位置する日本の港に、1544年に渡来した。
日本からの帰路は冬の季節風を利用したジャンク船に便乗し、ボルネオ島に到達した。
A日本の港では、ペロ・ディエス同様に、パタニの中国人のジャンク船で渡来していたポルトガル人を目撃した。
そのジャンク船5隻に対して、別の100隻あまりのジャンク船が攻撃をしかけたところ、ポルトガル人が率先して大砲や銃で撃退した。
B同じ港に琉球からポルトガル人が集まってきて、琉球で見た豊かな金銀情報を伝えた。
Cペロ・ディエス自身は、日本で金をわずかしか目にしなかった。銀・鉄・銅については潤沢であることを実見し、
特に銀塊が、取引の代価として日本で用いられることを伝えた。
以上の@からBによって、天文13年(1544年)におけるポルトガル人の日本渡来状況を知ることができる。
渡来経路は3通りで、
@のごとく双嶼の密貿易拠点を起点としたもの、
Aのごとく直行か双嶼経由かが不明ながらも、南方の中国私商船で渡来したもの、
Bのごとく、琉球を経由して渡来したもの、となっている。
@とAは中国人所有の船を利用した渡来が明らかであるが、
Bの琉球からの渡来船の場合は船の状況が明確ではない。
いずれにしても、双嶼への航海途中の日本寄航と想像する。
私感想:
太平洋東行航路発見を目指していた第4回スペイン探検隊ビジャロボスは、
1545年に、ポルトガル人に混じって日本へ行った、スペイン人の口から、日本情報を手に入れたのである。
ここで私が気になるのは、ペロ・ディエスは、ポルトガル人に混じって、自由に動き回っていることである。
西から東に吹く風を探して欲しいと言われれば、探せる立場ではあるだろう。
スペインとポルトガルの関係を考えると、コロンブスが、ポルトガルからスペインへと、後援者を乗り換えたし、
マゼランも、ポルトガルからスペインへと乗り換えたのである。
ヴィジャロボス隊が持ち帰った、フィリピンの金を含む物産情報・アジア交易情報、日本情報について、
スペイン人がポルトガル人に混じって、あるいはポルトガル人をスペインの手先として養成して、
インド経由の航路で東アジアへ向かい、
これらの情報を探り、日本人と接触する、という方法も、可能な選択肢であると考える。
何といっても、ヴィジャロボス隊の1548年の帰還から、1564年のレガスピ隊の出発まで、
15年以上もの準備期間があるのである。