秦始皇帝の一族(西方から来た弥生時代の渡来民)

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秦は中国でも、はるかに西方でオリエント寄りである。ペルシャやインドとの交流も古かった。

紀元前330年のペルシア帝国滅亡は、逃亡民の流入など、秦にとっても、少なからぬ影響を与えただろう。

私は、弥生時代の渡来民は、秦滅亡に際して、
新天地を求めてやってきた秦王族とその関係者の一団であると仮定してみる。

秦王族と言っても、彼らの一団は、ペルシャやインドなど、西方の関係者だった。

シュメール系の知識も持っていた。(膠着語であり、表意文字と表音文字の交ぜ書き
その最初の故地はメソポタミア、ハンムラビ王とも戦った、ラルサ王リム・シンの本拠地、
エラムの「ヤマトバル」と聞いていた。
                             仮説:西方から来た秦王族、についての参考文献リスト

日本語の交ぜ書き、大和は諸国が大きく和する所、その読み方はヤマト、と、これらの由来ははるか西方のものである。

また、シュメールの碑文に「日の出の地から日没の地までその首をたれさしてかれらに貢納を課し」(p344)
と出てくるように、かれらの世界の果てに対する好奇心は旺盛だった。それが大移動を可能にした。
またこれは、聖徳太子の文言も想起する。

この西方民族との交流も深かった、秦始皇帝の縁者たちが、
その滅亡に際して、収集した江南の稲などを持って日本に渡来。

かれらの言葉は中国系ではなく、西方言語に由来するものだった。それが原始日本語である。

九州北部や山口県西部に定住。
その時に作った貯蔵庫が、この地域の弥生前期に多数分布する「袋状竪穴」である。            

華北の灰坑の系譜を引くとされる、朝鮮からはまだ発見されていない
また日本の気候に最適とは言い難い設備がかなり長く使われたのは、
渡来系弥生人の出身地が、華北だったからである。
  *仮説修正か?2013年現在、朝鮮でも発見されているそうだ。参:木下正史『日本古代の歴史1・倭国のなりたち』吉川弘文館p110

遠距離移動の知識が深かった彼らは、渡来系弥生人形質に大きな変化が起きない数世代の内に、
少数の者は東北から北海道に達した


  参考:国立科学博物館「日本人はるかな旅展」弥生人の分布
 
       (渡来系弥生人形質のままで関東甲信あたりまで広がり、
        中間型形質だと東北・北海道まで移動

その遠来民族系の知識や形質で神と尊ばれつつ、在来住民と混血しながら、
徐々に日本各地に拡大していった。

それ以後が私サイト「仮説・古墳時代正史」である。

巨大古墳は、彼らが祖先と思う始皇帝の陵の大きさに影響されている、と考えればいいのではないだろうか。

騎馬民族の血というのは、馬が入ってくるまで、眠っていた形質ではないだろうか。


こういう話は、もちろん、歴博の弥生時代開始に関する発表の否定だし、
日本書紀は、8世紀の天皇家側の作品、という立場である。


2013/2/2/
以下はまたまた、私の想像による仮説。

私は、前方後円墳という共通様式を、列島の広範囲に広げて、一つの民族を作ろうと、
ある人々が企画した時から、「日本人」という民族ができてきたのだろうと思う。

それは、将来の対外的な脅威を予想して、その脅威からの、
生き残りをかけて編み出された、民族形成法だったのではないかと思う。

それは、絶滅の脅威を逃れてきた者たちの子孫が、漫然とした暮らしを捨てて、
民族形成のために、積極的に手段を駆使して作り上げた世界だった。

それは、大人数の人口を要する民族国家形成の意志をもって、人工的に作られたものである。

それが古墳時代であって、弥生時代人は、まだ日本人ではなかったと思うのだ。

つまり、弥生時代には、前方後円墳にともなう諸様式ほど、
全国レベルに広がる様式的人工物はなかったのではないかと思う。

古墳時代のその広がりが、情報と交通と交流の広がりであって、
つまりは、優勢な、民族形成を企画した者の言語である、
原始日本語の拡大であったと思うのだ。

近代の始めに意識された、話し言葉の「方言の違い」以上に、
弥生時代はもっと独立言語的な言葉が各地にあっただろう。

それが、古墳時代の共通様式採用にともなって、原始日本語と言えるほどに、
日本語の要素をかねそなえるものになってきた。

こういう意味でも、古墳時代が日本の始まりではないだろうか。

天皇家がどのようにして登場したのかはわからないが、
記紀ともに、古墳時代からの継続性を強調するからには、

全国の有力層を納得させるためには、
古墳時代からのトップとしての継続性の強調が重要だった、
ということのように見える。

しかし天皇家は、古墳時代を切り捨てたかったらしい。

古墳時代の経営について、絶対に語らない、
というところに、それが表れているように見える。

私は、あるいはそれが、古事記が示唆するような、血族経営だったからではないかと、想像してみる。

つまり、有力者はみんな親戚、という考え方を中心に経営していたのを、
天皇と家臣という形に変えてしまったとか。  2013・2・2