大里鉄砲隊 史料
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駐留開始についての史料 平成7年版『海南町史』p262より (注:開始時期・在方の鉄砲について)
益田豊後事件・関係文書
(海部城代になった、蜂須賀氏の姻族である益田豊後が、正保3年・1646年、処断された事件)
益田豊後が蜂須賀氏家の家臣であることの証拠として、蜂須賀家から出された文書に、鉄砲組士のことが出てくる。
「 預り申海部表約束一札之事
一、海部郡高七千五百石 小城壱ヶ所
鉄砲の者四組
右之通 仕置方 慥ニ 預り申処 子々孫に至る迄 貴方家来同前に 可被成候
右不届等 有之候はば 何時にても 相渡 可申候
於後日 居乱 為無之 之 一札如件
文禄三年(1594年)四月 増田虎三郎氏教判
蜂須賀阿波守殿 」
(『増田家始末記』)
「 預け相渡海部表約束一札之事
一、海部高七千五百石に 城一ヶ所ニ 鉄砲の者四組
右之通 高役仕置方 御頼候所 如件
文禄三年(1594年)四月 蜂須賀阿波守家政 印
増田虎三郎殿 」
(『阿波徴古雑抄』)
鉄砲の者四組は、1組20人と頭1人で84人であった。
駐留半減についての史料 昭和46年『海部町史』p66より
慶安4年(1651年)2月、海部御鉄砲の内、頭40人に暇を与えて郡中各所に移住させた。(いなくなったわけではない)
「 覚
海部御鉄砲者之内 頭四十人 今度御暇 被遣之也
彼者共 自分に 新田を開者 一人三反宛 可被下之条
郡中にて 面々 勝手次第 開候様 申附旨
数川源太兵衛・馬詰半兵衛 為御使 依被仰出 如此候也
慶安四年二月九日 加島主水 」
の覚書のように、自由に新田の開発をさせた。
御鉄砲は銃卒で、三人扶持と支配4石(小扶持は2石)を与えられ、
いずれも無格でその株も売買できた。
戦時に従軍する海部御鉄砲も、平生は日割で灘目付・分一所・魚役所等の御用を勤めていた。(木内翁談)
郷鉄砲は各村に在住し、平常は農耕に従い有事の際は徴集されて国境を警戒する
。
この株も売買が許されていたので時によって変動があったが、文化7年(1810年)の調べでは、
上灘各村に13人、四方原村8人、計21人になっている。
郷住の鉄砲衆 としては高園村の岩佐彦兵衛・野村徳兵衛・同庄右衛門、
野江村の木戸口伊兵衛・大田源之丞らが各小家・下人・影人などをもつ「一家居鉄砲衆」であり、
ほかに櫛川村の久保祖父兵衛・堀内熊次・中山村の佐藤直吉らがあり、
郷鉄砲・上り鉄砲も、各部落に散在していたようである。
(随分と鉄砲所持者が多いような気がする)