大里鉄砲隊へ戻る
○ 大里鉄砲隊の開始時期について
益田豊後事件の史料によって、開始時期を1594年とするのは早計かもしれない。
蜂須賀氏が阿波に来たのは1585年。9年も間があくのは不自然。
ここは単に、鉄砲隊の史料が確認できる、早い時期のもの、とした方がいいだろう。
○ 在方の鉄砲
鉄砲関係の参考文献はいろいろあるが、近世の村における、在方の鉄砲について書いてある本が珍しかった。
葉山禎作編『日本の近世・第4巻・生産の技術』中央公論社・1992年
紹介していただいたのは和歌山市立博物館である。
武器としての鉄砲についても、一通りの説明がある。
この本の82ページに、18の藩等の鉄砲数が紹介されている。
この中では仙台藩や尾張藩といった大藩を押さえ紀州がトップである。
「紀州の鉄砲保有数については、『南紀徳川史』という史料の第11冊
に「地士所持鉄砲調之事」という記録記事が載っています。
これには紀州各地の鉄砲の数を記しています。
これを合計しますと8000挺
以上の数字になります(元禄6年時)。」博物館
これらの紀州の鉄砲は、おどし筒(空砲でおどす)、あるいは猟師筒がほとんどである。
したがってそれを使用するのも百姓、猟師ということになる。領主層の保有を上回る例も多い。
(本書によれば、開発が進み、けものとの戦いが増加したことが理由らしい。
イノシシ・鹿・猿・狼などが挙げられている)
紀州は戦国時代には雑賀衆らが活躍したのだが、いわゆる「帰農」 した状況になっている。
和歌山市立博物館によれば、
「鉄砲隊を組んだり、国境辺を守備
したりすることはなかったと思われます。管見の限り記録もないと思います。」
*大里鉄砲隊は、基本目的(阿土国境警備)から言うと戦闘態勢であり、
(まだ直接の文献は見ていないが、常にそう言われ続けてきている)
郷鉄砲も、いざ一戦の際には、戦闘部隊として組み込まれる予定らしいのが、普通ではない。
*鉄砲伝来の話には、大抵、それまで培ってきた、日本刀生産のための鍛鉄技術の話が
ついて回るのだが、
それ以前に100年続いた遣明船貿易では、琉球経由を含めて、
日本刀が付加価値最大の輸出品だったことが、全く出てこない、
のが不思議である。(遣明船貿易の日本刀)