遣明船貿易の日本刀
                                     トップへ戻る  スペイン太平洋航路へ戻る
            1、田中健夫著 ・2、今谷明著

1、田中健夫『倭寇と勘合貿易』思文堂・昭和36年、P125より

 応仁以後、「公貿易の中心は刀剣だった」。
「公貿易品」である日本刀は、政府との取引であるため、北京に送られて価格が決められた。

その他の貿易品としては、蘇木・銅・硫黄などがあったが、応仁以降は、これらは、おおむね、私貿易(私注:遣明船貿易の)にゆだねられた。
私貿易では、刀剣は扱えなかった。

 中国人の日本刀賛美の歌がいくつもある(注1)。日本の刀剣は、宋代から中国では珍重された。
以下は国王(つまり将軍)附塔品として舶載された刀剣で、数量の明らかなもの。

 日本刀の、遣明船貿易の輸出量(1432年から1539年まで、約100年間)

派遣の時期 刀剣の数 1本の価 総額 備考
永享4
1432
3000 10貫文 3万貫文
10 永享6
1434
3000 10貫文 3万貫文
11 宝徳3
1451
9968  5貫文 4万9840貫文
12 寛正5
1464
30000 3貫文 約9万貫文
13 文明8
1476
7000 3貫文 約2万1千貫文
14 文明16
1484
37000 3貫文 約11万1千貫文
15 明応2
1493
7000 1貫800文
300文
9600貫文 5000本は1800文
2000本は300文
16 永正6
1509
7000 1貫800文 1万2600貫文
18 天文8
1539
24152 1貫文 2万4152貫文 別に自進物として710
本があった

 
上記の数量のほかに、使臣自進物の刀剣などもあったわけだから、全体では20万本くらいにまで、なったかもしれない、と、田中氏は言う。

 100年の間に、刀剣の価格は、10分の1以下に下落してしまった。
理由として、輸出量の過剰、明側の輸入制限、大量生産による品質の粗悪化などをあげておられるが、
品質悪化について、中国側からの、刀剣の粗悪化を指摘した史料はない、という指摘もある(注1)。

 刀剣の利益は莫大だった。第11回宝徳度遣明船では、日本では800文から1貫文の刀が、明では5貫文になったという。4〜5倍の利益である。

 第16回永正度遣明船の老使節(87歳)了庵桂悟が、刀剣の値段のことで、明と執拗に折衝を繰り返したことは有名である。
これも、刀剣貿易の利益が遣明船貿易の中で、きわめて大きな比重を持っていたからである。

(注1)石原道博「日本刀歌七種(中国における日本観の一面)」茨城大学文理学部紀要・人文科学11号、1960年
(注2)田中博美「遣明船貿易品としての日本刀とその周辺」東大史料編纂所報24号、1989



2、今谷明『琵琶湖と淀の水系』週刊朝日百科「日本の歴史20」中世U、昭和61年、
                   5−258より引用、適宜改行


 第二次産業では、陶磁技術で朝鮮・中国に全く歯が立たなかった日本ではあるが、鍛鉄の部門で中国を凌駕する高さを示した。
玉鋼(たまはがね)の発明と、それによる日本刀の大量製作である。

 勘合貿易の期間中、明帝国に輸出された刀剣は二十万本以上といわれ、私貿易(私注・遣明船貿易外?)を含めると、どれだけ多くの刀が中国へ渡ったのか、想像もつかない。十五世紀のわが国は、驚くべき武器輸出国であったのだ。

 この大量生産を可能にした技術は、『東北院職人歌合』(高松宮家本)から示唆される、踏鞴(たたら)の発明による送風装置の改良である。

 木工業でも大鋸(おが)が中国から導入され、林業資源の豊富さとあいまって、大量の製材が初めて可能となった。


(私注:横引き鋸は古くからあったが、木材を「縦」に製材するには、くさびを打ち込んで、断ち割る必要があった。
今では大きな鋸はありふれているが、昔は、大きくて薄くて丈夫な鉄材を作るのが、難しかったのである。

 1445年兵庫北関入船納帳に出てくる、海部から搬出した木材は、「(くれ)」という、長さ12尺、幅6寸の板となっていて、
海部で製材していたことは間違いない。)