『地底のエリート』のメッセージ
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私は、「地底のエリート」には、大きくは二つのメッセージがあると思った。
核戦争への警鐘と、
歴史における偶然が重要な役割を果たす、ということである。
つまらない些細な事故で、大統領が舞台から退場する。
それがこの核戦争勃発の物語の、重要な伏線になっている。
一世を風靡していたマルクス主義の標榜するものは、歴史の必然であって、
偶然は大きな役割を持たない、ということだった。
そのマルクス主義に対する皮肉が込められているようだった。
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しかし私は、この本について、高校時代、
思いもよらない解釈を聞かされて、唖然とし、絶句したことがある。
核戦争勃発後、選び抜かれたエリートだけが、地下シェルターに避難する。
そのシーンを指して、これは、
優秀な者は生き残り、そうでない者は死ぬ、という話だ、
だから、これは、見てはならない悪書である、
そういう本を読んで、あの人(私)は、優勝劣敗の思想を身につけたのだ。
あの人(私)は、優れた者は生き残り、敗者は死ねという思想を持っている、
鬼の首を取ったようにそう言いふらす人がいて、高校の同級生の間に広まり、
それが伯母を通して、我が家まで回ってきて、何をとんでもないことを言うのだ、
と、真剣に責められて、言葉を失ったのであった。
私は、空中写真的に、社会を外から自然の中のものとして見るのが当然だと考えていて、
社会を自然科学で考えるのは当然ではないのか、と、人に聞いたのだ。
ところがそれは、倫理社会の授業に関連しての話だった。
倫理社会で、社会ダーウィニズム(社会進化論)の説明があった。
「社会ダーウィニズムとは以下のようなものである。
人類社会は、
環境に適応した優秀な者が生き残り、
環境に適応できない劣った者が排除されて、
進歩・進化するのだ、
このような考え方がナチスなどに影響を与えて、社会に害をもたらした。
これは社会を自然科学的に考えようとした結果発生した、悪しき社会観である、
社会を自然科学で考えてはいけないのだ。」
先生がそう言ったものだから、
私は思わず、社会を自然科学で考えるのは当然じゃないの?
と人に聞いた。
空中写真的に、社会を外から自然の中のものとして見るのは当然だ、
それは私の確信だった。
呼吸している空気は酸素と窒素の混合物だというのは、
この生きている世界を、科学で考えることではないのか?
人体の仕組みを考えるのは、科学で考えることではないのか?
社会はそうした科学の対象物できているのだから、
社会を科学で考えるのは当然ではないのだろうか?
同じように勉強してきたはずで、
自分は、みんなほとんど同じ常識を持っているはずだ、と考えたことだった。
それなのに、一言「社会を自然科学で考えるのは当然だ」と言ったとたんに、
それは「私が、優勝劣敗が社会の進化を促がす、と確信的に考えている」、
という内容になったのである。全く言葉が出なかった。
しかし、このすばやい意味転換は、聞いた人には大いに歓迎されたようである。
経過はこうである。
「社会を自然科学で考えるのは当然じゃないの?」
「それは、社会は優勝劣敗で進化する、と言ってることよ」
ここで私、絶句。
次にはこうである。別の人。
「あんたは、社会を自然科学で考えるのは当然だと思うのか?」(イエス)
とたんに相手は気色ばんだ。
「何を言う。訂正しろ。いいっ?訂正しろ。」
(私、どうして訂正しなくてはならないんだ、という顔でいる)
(相手は激昂して、フンっと離れていく。)
ところがこれは、私が、優れた者は生き残り、劣った者は排除せよ、と考えている、
という話になって、拡大していくのだ。
それを聞いた人は、私の言葉に、
優勝劣敗以外の考え方が含まれている可能性は、全くない、
としか、考えられないようだった。
私はこの状況自体に唖然とするばかりで、何と説明したらいいのかわからなかった。
私が社会の発展を、
優勝劣敗の社会ダーウィニズム(社会進化論)で考えている、優勝劣敗を良いと考えている、
みんな、私がそう言った、と本気で受け止め、それが広がっていた、
そういう、それより前の話があった上でのことである。
私はその時から、すでに男子勢力から、脅迫めいたものを感じ、身の危険を感じていた。
もちろん、聞いて信じた女子の敵意もである。
よくそんなことが信じられるなあ、と思うのだが、人を敵視したい集団心理には、
ちょうどいい口実を与えることになるのである。
言った人たちは、学校の先生の子どもたちだった。
ここにも、学校教員・寺島弘隆氏の影響を感じざるを得ない。
私は、思想的に優勝劣敗を良しとしている、と見なされて、
このように、周囲から思いもよらない恐怖を感じたことがあるので、
そうではない、ということを、ここに書き記す。
私は、激昂しながら詰め寄る人たちに、
自然科学で社会を考えるということの意味を説明できなかった。
今も、身の危険の一つに数えているのである。
公平であろうとする先生でも、事の真偽はわかりにくそうに思う。
公平を旨としない、問題を感じたら、それだけで、
学校と自分の危険回避のために拒否姿勢を明確にする先生には、
見事にターゲットにされてしまう。
思想に問題があると言うのだ。
高校の倫理社会で東西の思想について勉強するけれども、
ここでもマルクスに関しては、
その教え方に不思議なギャップがあったと思う。
つまり、社会と自然科学について、当時一番過敏な思想的思潮だったのは、マルクス主義だったはずなのだ。
ところが、社会と自然科学の関係となると、
当時の世上ではほとんど話題にも上らないような、社会進化論(社会ダーウィニズム)との関連で出てきた。
社会進化論は社会に対する自然科学の適用である。
社会と自然科学は全く相容れないもので、社会に自然科学を適用するのは間違いである、
という解説がされていた。