9世紀の中国在留外国商人について、的場『ジパングと日本』P56
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(的場著『ジパングと日本』の全体の趣旨は、「ジパングは日本ではなくフィリピンだった」、ということを論証することである。
その論考の始めの方で、古いアジア地域の地図についての考察がある。その中の一節である。)
外国情報を描いた古い中国作製地図は、貞元17年(801)「賈耽華夷図」まで遡る華夷図がいくつか知られている。
9世紀後半になると中国では、情報伝達の媒介となった西域商人との交流があった。
例えば南海交易拠点の広州で発生した西暦880年前後の黄巣の乱の結果、
多くのアラビア人、ペルシャ人、ユダヤ人らが殺されたり、追放されたことが知られている。(21)
その後。五代(907〜960年)には泉州で「招来海中蛮夷商賈」と史料に伝えられ(22)、
宋代哲宗元祐年間(1086〜1093)の泉州でも「提挙市舶司(中略)掌番貨船舶、徴収貿易之事、以来遠人通遠物」と伝えられている。(23)
以上から推定できる事実は、9世紀後半の段階で広州に大規模な外国人の居留が認められ、その後しばらくの空白期間があるものの、
十世紀にはいると泉州の開港と共に外国商人が通い、貿易活動が活発化したということである。
これらの外国商人は黄巣の乱後」の一時期に、大陸部を避けていた。したがって中国側が外国商人を最後受け入れた後に、
交易活動を通じて南海の地理情報が泉州や広州に伝わり、地図作製に採用されるにも至ったのであろう。
然るに同様の情報が地中海世界まで到達し、現地で地図作製の場に伝えられたことは十分に考えられる。
注:(21)前島信次「黄巣の乱についてのアラビア語史料の価値」(1957年初出論文)、
『東西文化交流の諸相』所収、誠文堂新光社、1971年、p213〜218。
(22)歐陽修『五台史』巻68、王審知世家所載史料(魏U孫「中韮交通開始年代商権」『中韮文化論集二』所収、中華文化出版事業社、
台湾、1960年、p154〜155の引用史料。
(23)『泉州府志』巻26、文職官上宋諸司所載史料、前掲注(22)魏論文の引用史料。
私コメント:
私が言いたいのは、要するに、陸を見ながらの沿岸航海は、非常に古くからあった、ということである。
陸路でシルクロードがあれば、海路を探るのは当然の成り行きである。
より多くの荷物を運べるのは、海運の方なのだから。
参考:マラッカ