物質世界と人間

   (社会を支える「情報」の働きを、唯物論で捉える

                            史料批判要諦へ戻る          『歴史と証明』理論編・史料批判へ戻る

     ***
     かつてマルクス主義が盛んで、「唯物史観の公式」というものが、もてはやされた時代があった。

     簡単に言ってしまえば、「経済という<物質問題>が社会を発展させる要因である」、という考え方である。

     歴史の動因をどう解釈するか、自分が生きている現代をどう解釈するか、という問題を含んでいたので、
     政治・経済・歴史学で、この公式の説明が載っていない本はない、くらいの時代があった。

     この「唯物史観の公式」が盛んだった頃には、「物質」問題という言葉だけで、すなわち「経済」問題を指していた。
     こういう時代があったので、私はわざわざ、あらためて「物質」の意味を説明するわけである。
     *****

世界史の自然的環境を考える。

長い長い宇宙的な時間や、出現して時わずかな人類、地球をとりまく宇宙環境、地球の形状等。

これがつまり、宇宙空間に浮かぶ地球上の、物質現象として世界をとらえることの、基本である。

宇宙全体の組成を極小粒子とエネルギーとして捉えなおす方法があるように、
地球という生命を含む物質圏の組成を、極小粒子エネルギーとして捉えてみる。

それは、空間を占めて質量を持つ「ナニカ」でできた世界である。この世界を、私たちは「物質世界」と呼んでいる。

人体は、膨大な数の細胞群の一集合形態であって、原子でできた分子構造物が絶えず出入りしている生命である。

原子核や電子の動きが時間を表すように、
地球上の歴史も、空間を占めて質量を持つ「物質」の動きで捉えることができる。
自然科学的には。

この極小粒子とエネルギーでできている世界という考えに、人間の考えることを混入させてはいけない。

空間を占めて質量を持つ、物質の存在の仕方が「ある」だけの世界なのだ。



個々の人間を取り巻く「物質関係」というのは、常に「物質」に取り囲まれているということである。

その内容は、以下のようなものになる。

  「酸素」や「窒素」の混合物である「空気」、「炭水化物」や「たんぱく質」や「ミネラル」などの「食物」、「水」、
  あるいは「光」、「気温」、「気圧」、「重力」、等々の「物理的要素」。

  一人一人の人間の体が、そういう物質の環境の中で、いかに精緻な仕組みでもって生命を維持しているか


そういうことが「物質関係」なのである。


人間は膨大な数の細胞の集合体であり、
常にその細胞を入れ換えつつ、自分の体というものの恒常性を維持している、
生物である。

細胞の交代率で考えると、どこまでが自分で、どこまでが自分でないのか、
判然としないながらも、自分という恒常性は維持されている、
一個の生物である。            
                
  参考:(体の入れ替わる速度)
                                  お断り:先方サイト管理者と私は無関係です。
                                      リンク許可申請しましたが、返信がないのでそのままとなっています。

                    参考:人体基準の認識枠(拙著『ものの見方の始めについて』より)

<時間と物質世界、それと人間の歴史>

地球は「宇宙の時間」の中にある。そして「人間の歴史」は「地球の時間」のなかにある。

「人間の歴史」は、「地球の時間」と「人間の事象」とを対応させることによって理解される。

これは通常では、人間が作った「暦」と、「人間の事象」の対応として理解されている。

「地球の時系列」の中に、「人間の事象」の時系列もある。


「人間の事象」は活動の痕跡を残す。
その活動の痕跡を時系列に正しく整理することは、


歴史的事件・歴史的対象が、確かに同時代に物質的に関係している(同時代のものである)、

ということを証明するのに、役に立つ。

宇宙から見た地球世界を念頭に、「時間の断面を切り取る」「時間をゼロに収斂する」ということを、
社会を物質として考察するための、一つの方法として提唱する。

<空中写真で見た世界>

闇の宇宙に浮かぶ青い地球。

 自分を含む人間は、この地球世界から出ることはできない。

 そしてこの宇宙は、基本的には、

 極小の粒子とエネルギーの世界と見ることができるだろう。


  上空から社会を眺めるように、空中写真的世界を念頭に置いて考えたとする。
これが社会の物質的姿であり、実在の姿であろう。
                                                      
   国土地理院の空中写真閲覧コーナーで「東京駅周辺」を見てみよう。

                
空中写真「東京駅周辺」

   所有関係も、この空中写真の中で複雑に錯綜している。
東京駅周辺の建物や土地が、誰(あるいはどの法人)のものか、
実際に利用しているのは誰(あるいはどんな人々)で、どのような形で利用しているのか、想像してみてほしい。 
その上で、所有とは何かと、考えてみてほしい。

 所有関係と実際の利用が常に一致するわけではないだから、
誰のものかを最終的に確認しようとすれば、人は法務局へ出かけるだろう。

 不動産の所有の根拠は、法的に疑いのない場合は、常に法務局の記載事項である。

 所有とは、登記所(法務局)の記載を、人々が相互に情報処理することによって成立しているのではないだろうか。 

 「社会」に関する大抵のことが、音・紙・電波・電子などを媒体として伝わった記号信号による情報でできている。

 例えば憲法は、言葉で書かれた社会制度についての情報として、人々の間に流布し、
社会や法律や人間関係を考える際に、参照情報として頭に思い浮かぶ基本事項だろう。

 制度とは、「ある事柄についての共有認識の発生の事実」を前提として、
社会的強制力を背景に、発生した共有認識の相互実現を図ろうとするものである。


 その共有認識を発生させるためには、人々の間に、情報の周知徹底がなされることが、重要な問題となってくる。
そしてそれは、世界に対して建設的に関わっていくための情報でなければならない。

 錯誤や虚偽は、このような意味で、不都合な情報であると言えるだろう。

 日本列島に乗って暮らしている1億の人に(空中写真を思い浮かべてほしい)、
共有認識としての「憲法」などがあって、
相互実現を図るための強制力の仕組み(合意による強制・法的強制執行・警察など)があれば、
「制度」成立である。

 それは、人体外の記号信号を、人々が相互に情報処理することによって、成立している。

 ただし、人体外部にある情報記号というのは、単に現在行動を導き出す直接情報だけを指すのではない。

 それは例えば、赤子が母親から学ぶ初期の一語一語、また幼児期に学ぶ日本語の基本、
学校で学ぶ社会言語、メディア経由の用語、個人が参加している集団内の情報など、
およそ個人の認識を形成する情報のすべてを予想する必要があるだろう。

   所有権侵害に対する権力の発動も、それぞれの人の、
外部情報(法律・社会認識を築くために与えられた社会情報)から築き上げた社会認識による、
脳の情報処理が原点となって、違法行動を排除する行動に至らせるのである。



<お金と物質

  ニホンザルに1万円札と10円玉を渡しても、その差1000倍というのは、ニホンザルにはわかるまい。

 ニホンザルには紙と金属の銅くらい?にしか識別できないだろう。 数を理解する人間だけが、1000倍を理解する。

 1000倍というのは、印字してある数字の問題である。 それを見て、脳で情報を処理しているから、お金の価値の違いがわかるわけだ。

 紙と銅という、素材物質にそのような違いを示すものはない。


 人が、価格の変動する「金(ゴールド)」を見ている構図を、物質世界の変化として考えるなら、
 激しく変化するのは人間の「脳の活動」のほうである。「金(ゴールド)」は変化しない。

 これが物質世界で起きている現象である。したがって、お金の問題は人間の意識との関係が深い。


マルクス主義の『唯物史観の公式』には、以下のような言葉がある。

    「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、
     逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」

    「経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ、急激にせよ、くつがえる。」

しかし、飛行機から眺めるように、眼下の社会を物質的な存在として見るならば、
社会は、そのような成り立ちではない。


たとえば、公園のベンチに本を置き忘れたとする。

ベンチに戻ってみたら、他人が自分の本を読んでいた。

その本は私の物だ、と主張する根拠は何だろうか?

名前を書いてない本自体には、誰の物だと証明するものもない。

その他人が、悪意でこの本は自分の物だと主張したら、
両者の光景を見ていた者もいなかった場合、取り返す方法がない。

こういう例を考えても、階級発生の根本である所有は、物質世界の問題ではなく、
人間の脳内の問題であり、意識の問題である、
と、言えるだろう。




       *上記「物質世界と人間」は、即ち、別ページ「空中写真で見た世界」と、同じものである。