羽下徳彦「室町幕府侍所頭人付、山城守護補任沿革考証稿」より
                           『東洋大学紀要』文学部篇16
                                        小川信『足利一門守護発展史の研究』吉川弘文館へ戻る
                                        中世海部氏関係の文献についての年表へ戻る


山城国内で、遵行を担当した者の表

月日 遵行担当者 遵行対象地 典拠
1338 暦応1 1・29 飯尾彦六左衛門入道
斎藤形部左衛門入道
久世庄上下地頭職 東寺百合文書み32−48
執事施行状案
10・19 和泉次郎右衛門尉
安富右近大夫
1341 暦応4
4・29
勝田孫太郎
大内豊前権守
1345 貞和1 10・18 松井太郎
1346 貞和2 2・18 相賀源三郎
大野左近入道
1348 貞和4 10・8 四方田七郎兵衛入道
市新左衛門入道
12・18 小串下野権守
市新左衛門尉
1351 観応2 4・1 松井蔵人太郎
佐々木馬板八郎
4・21 相賀三郎次郎
小早川備後守
11・19 藤原直重
関部但馬孫二郎左衛門尉
12・1 中嶋二郎左衛門尉
小串八郎右衛門尉
1352 正平7 2・25 海部但馬守
広田出羽亮五郎
久世庄 東寺百合文書ホ36−55
幕府奉書
2・ 中島二郎左衛門尉
安藤平次
3・22 波多野印旛入道
小串下総権守
6・3 曽我又次郎
相賀三郎次郎
8・5 中島二郎左衛門尉
斎藤三郎左衛門入道
8・20 曽我又次郎
1352 文和1 8・27 相賀三郎次郎
曽我又次郎
9・15 市四郎左衛門尉
相賀三郎次郎
9・18 斎藤三郎左衛門入道
小早川出雲四郎左衛門尉
9・18 小早川弾正左衛門尉
相賀三郎次郎
9・18 斎藤三郎左衛門入道
小早川出雲四郎左衛門尉
11・18 俣野中務丞
小早川出雲四郎左衛門尉

           *一人の時もあるのだが、すべて両使あて、と説明がある理由は、私にはわからない。
            空白は、私がまだ書き込んでいないだけである。

 海部氏はちょうど、後村上天皇を迎えるために出て行った、ように見えるのだ。

 表で見る限り、南朝京都進軍・北朝方天皇拉致という大事件の直前、京都で事実上の執行者であったのは、海部氏たちに見える。

      それが小川信著『足利一門守護発展史の研究』では、人事の扱いが、広田・海部と、逆になっている。


*****おことわり:仮の説明文です。
時は南北朝時代。足利尊氏と足利直義(ただよし)兄弟の争いは、
後に「観応の擾乱(じょうらん)」と呼ばれるような、大きな混乱をもたらしていた。

尊氏は直義との抗争に決着をつけるため、南朝と手を結んだ。

尊氏は京を長男の義詮(よしあきら)に守らせ、自分は駿河(静岡県)で直義と戦い、大勝利した。直義は鎌倉に捕らえられた。

こうした中、京の義詮は、様子がわからず不安になったが、
それを見透かして、南朝では、京に軍勢を進めてくるようすを見せた。

1352年(正平7)2月25日、細川陸奥守(むつのかみ)顕氏(あきうじ)は、
海部(かいふ)但馬守に、
東寺八幡宮領であった山城国(京都)久世に行って、
治安維持に当たるよう命じた文書を出した。(東寺百合文書・原文

2月3日、南朝の後村上天皇が賀名生(あのう)を発つ、
という知らせが来ていた所へ、

その進行方向に当たる久世に対して、
東寺から治安維持の要請が来ていたのだ。

海部氏は直ちに、広田氏と共に、久世に向かった。

後村上天皇は2月26日出立。7千余騎が道中警護。
同じ日、鎌倉では、直義が急死していた。

後村上天皇は住吉神社に18日間逗留し、
閏2月15日、天王寺へ。

閏2月19日、八幡に到着。軍兵充ち満ち、もっぱら合戦のご準備との噂に、都中が動揺した。

閏2月20日、北畠・楠木軍が京都に突入。

細川陸奥守顕氏(あきうじ)は、かろうじて落ち延びた。
細川讃岐守頼春は敵と戦闘になり、首を取られてしまった。

足利義詮は、かろうじて近江へ退くことができた。

その後、南朝方は、北朝方の三上皇と親王を、南朝の根拠地へと拉致した。
 
この表で見る限り、海部但馬守は、
この危機的状況と重大事に向かうのにふさわしい武将、
とみなされていたように見える。

ところが、この論文を註10で引用した大先生のご著書の記事では、
広田・海部但馬守、
と、海部氏の順位が、下位に落とされているのだ。 (小川信『足利一門守護発展史の研究』

素人目には、但馬守という名前は、
細川陸奥守・細川讃岐守という有名人と比べても、
そん色ない立派な名前に見えるのに。

私の経験では、名前の順序など、大したことではない、
というのが、専門家筋の意見である。

しかし、式典などでは、席次は常に、政治的配慮が含まれていて、
その認識は、おろそかにできない、はず。


だが、私の経験する、海部氏関係の順序に関しては、
専門家筋の話では、一様にそうなるのである。

これが、歴史学の方法として一般化するようなことになったら、
歴史認識も社会認識も混乱するだろうに。

このような論理の混乱を受容する歴史学というものが、
どうにもむずがゆく感じられる。