『足利一門守護発展史の研究』小川信著・吉川弘文館・昭和55年(1980年)・p92

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海部氏関連文の上掲書原文

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さて直義(ただよし)はまもなく自軍を率いて越前を発し、関東に赴いたが、

尊氏(たかうじ)も一旦帰京後、義詮(よしあきら)に幕府の政務を委ね、

仁木頼章を自身の執事に任じ、

南朝に帰順して後村上天皇より直義(ただよし)追討の綸旨を受け、

次いで執事仁木頼章畠山国清以下を率いて11月4日京都を進発し、

関東に向かった(『園太歴』10月23日条、11月4日条等)。


顕氏(あきうじ)義詮(よしあきら)と共に京都に残留し、

正平7年(観応3年、9月に文和と改元、1352)正月5日、南朝から従四位下に叙せられた
(『園太歴』同日条追記)。

彼は前年6月北朝から正五位下に叙せられた許りであるので(同書観応2年6月26日条)、

この越階は異例の昇進であり、旧直義(ただよし)党諸将中、最も早く直義(ただよし)を見捨てて幕府に帰参し、

直義党衰頽の誘因となった彼が、

義詮からいかに重んぜられたかを示すものである。


次いで同年(正平7年・観応3年)2月25日顕氏(あきうじ)は東寺八幡宮領山城国久世庄の濫妨人を退けるべき旨の奉書を

広田出羽亮五郎(時直)海部(かいふ)但馬守の両使(註9)に下していて(東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」ホ36−55)、

          ここ、原文とは人名の順序が逆。海部但馬守・広田の順

引付頭人(ひきつけとうにん)に再任して義詮(よしあきら)の政務を補佐した事実が知られる。(註10)


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註9広田時直は、第二節註(13)に述べたように、後には細川氏春の被官として見える淡路の有力国人である。

海部(かいふ)但馬守については他に管見に触れないが、

降って明徳3年(1392)相国寺供養の際の管領細川頼元の隋兵中に海部三郎経清があり(相国寺供養記(しょうこくじくようき))、

満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)応永26年8月3日の条に「細川讃州(義之(よしゆき)若党カイフ(海部)と云者」と、

阿波守護細川義之の近臣に同姓が見えており、

海部氏は阿波国海部郡を本拠とする細川被官と推測される(第五章二節二参照)。

したがって顕氏(あきうじ)は、頼春・師氏の分国なる阿波・淡路出身の武士の一部をも自己の統率下に置いているものの如く、

然りとすれば、それは多年顕氏が一族中最も有力であった結果であろう。



註10:この顕氏(あきうじ)の奉書は遵行地が山城国内に在るが、幕初以来文和元年まで山城守護が不設置で、

当国内に関する幕府の遵行命令がすべて両使宛に発せられていることは、

前節註(1)所引羽下徳彦氏論文に実証されており
、この顕氏奉書もその一例である

      (前節註1を見ると、羽下徳彦氏「室町幕府侍所頭人付、山城守護補任沿革考証稿」『東洋大学紀要』文学部篇16参照)


引付方は直義再度失脚、出奔をみた前年7月の政変以来機能を停止し、義詮御判御教書がこれに代わったが、

ここにその機能が再開されたことは、本文に掲げる正平7年2月28日付け(顕氏奉書の3日後)

細川頼春発給の幕府奉書によっても証明できる。



*********私疑問******

  註10の「当国内に関する幕府の遵行命令がすべて両使宛に発せられている」の意味がわからない。

  命令が海部・広田の両使に出されている、という意味なら、他に文献があることになる。

  しかしそれだと、註9で、管見では海部氏のことは他には知らない、と言っているのと矛盾する。

      (追加) 羽下論文を取り寄せて確認した。「両使」というのは、
             「二名」という意味の中世用語らしく思われる。

            命令書はたくさんあって、いろいろな人物あてだが、大概、二名に宛てている、のだ。

            ひょっとしたら、もっと海部氏の名前が出てくるのかと期待したが、
            あまりの専門用語に、負けた。残念。


  それから、なぜ細川顕氏から海部氏に出された文書が、引付方の機能が再開した証拠になるのかも、
  部分部分を読んでいるだけの私には、わからない。


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語句解説: 

    引付(ひきつけ):

    鎌倉・室町幕府の訴訟機関。1249(建長1)鎌倉幕府五代執権北条時頼の時、裁判の迅速・正確化を目的として設置。

    引付頭人が引付衆(4,5名)および個々の訴訟を分掌審理する引付奉行人(右筆、4,5名)を率いて一つの引付を構成する。

    引付の番数は3番(のち5番)で、一ヶ月の内日数を分けて訴訟を審理する。鎌倉のほか六波羅にもおかれた。

    引付の審理の対象は創建当時では御家人訴訟であったが、のち土地・年貢などの処務沙汰を対象とするようになった。