中世海部氏関係の文献についての年表                            海陽町歴史記述の問題点へ戻る


                  *** ここでの注目点は、太平洋側航路が「消される」ことと、
                        海部氏の中世の活動ぶりが「消される」ことである。

                        南海路の詳述は、昭和36年・田中健夫著以降消えているし、

                        海部氏の京都での活動振りの記録改変や、
                        皇太子殿下がらみの著名本での海運記録の削除など、
                        その矮小化・無視の傾向は顕著である。


昭和36年(1961)
 羽下論文(『東洋大学紀要』文学部篇16)

   1352年、海部氏、京都警護に登場。

   山城国守護不設置について論証した論文の中で、
   1352年東寺百合文書に海部氏が出てくることについて、
   その作成表の中で初めて?指摘。

 田中健夫『倭寇と勘合貿易』至文堂・出版

       1467年応仁の乱で、瀬戸内海が封鎖された。
       遣明船の内、幕府船と細川船は、九州南端を回って四国南岸をたどり、堺へと帰還。

       ここに、太平洋側航路である「南海路」が、はっきりと歴史に姿を現した。(勘合貿易と南海路

    遣明船貿易で使用された「南海路」と、
    交易品の高価主品目であった「刀剣」に詳しいが、

    この本以降、これを正面から取り上げた本はほとんどない。
                   (田中健夫氏は、著作を見る限り、地道な研究一方の方らしい)
   
昭和39年(1964)
 林屋辰三郎氏
   1445年・兵庫北関入船納帳を古書店で発見。

昭和43年(1968年)
  司馬遼太郎『夏草の賦』文芸春秋から出版
    
長宗我部元親が主人公。海部、海賊働きをする、との記述。

昭和46年(1971年)
  『海部町史』刊行。
      すでに兵庫北関入船納帳に触れた部分がある。

昭和55年(1980)
 小川信氏
   『足利一門守護発展史の研究』吉川弘文館
の中で海部氏に触れ、
    東寺百合文書・『相国寺供養記』・『満済准后日記』
    に、海部氏が出てくることを指摘。
    昭和36年羽下論文を紹介。

   海部・広田の順を、広田・海部にするという、順序の格下げは、
   先に広田を取り上げた部分があるため、もあるかもしれない。

   しかし、「守」と付く者を後ろに回すのは、どうも納得がいかない。
   ましてや、羽下論文で海部・広田の順であることを確認しているのだから、この格下げの疑問は大きい。

昭和56年(1981)
   林屋辰三郎編『兵庫北関入船納帳』が出る。
    写真と翻刻と論文を掲載。

昭和60年(1985)
   今谷明『戦国三好一族』出版。

     今谷明氏は、林屋編『兵庫北関入船納帳』の後半の論文で、
     阿波海部、全体で10位、阿波で1位と
     指摘されたご本人である。

     その方が、『兵庫北関入船納帳』の4年後にお出しになった本で、
     阿波海部について、奇妙なことをお書きになる。

    「この地(海部?)の住民は掠奪を生業としていた。」

    「之長にとって最も無念だったのは、
     阿波水軍の棟梁、海部氏が、殆ど戦わず戦場を去ったこと」

     など、ご自分ではその理由を全く説明しないまま、
     根拠も不明な文を、海部や海部氏について、突然書く。

     そもそも、住民が掠奪を生業にしていた(?)、なんて、
     名誉毀損の類ではないだろうか。

平成4年(1992)
   児玉幸多編『日本交通史』吉川弘文館が出る。

   この本の、109ページの瀬戸内海主要港地図から、
   入港数の少ない、徳島・高知の他の港が掲載されているにもかかわらず、

   ダントツ1位の「海部」が消されている。

   執筆担当者の小林保夫氏は、林屋編『兵庫北関入船納帳』の後半部の
   論文の執筆者の一人であって、

   今谷明氏の論文担当部分での、入港数統計のピックアップ部分で、
   海部全体10位、阿波1位の序列を、見逃すとは思えない。

   また、吉川弘文館編集部の、Kという女性担当者は、

   小林先生のご判断によって削除されたものであり、

   それは執筆者の権限にかかわることで、
   著作権に関わることだから、

   こちらの問題ではない、と言う。

   (皇太子殿下がらみの、話題の本の間違いについての、
    歴史書老舗出版社の対応は、素人には不思議である。

    間違いは著作権によって保護される、と言うのだ。)

   児玉幸多氏は、皇太子殿下の先生である。

   皇太子殿下はご専門が中世交通史らしい。
   卒業論文は「兵庫北関入船納帳」に関するものらしい。

   皇太子殿下の学業の進展と、
   学会の海運研究の中の徳島や海部についての言及も、
   比較する必要があるかもしれない、と、思われるくらいだ。

平成7年(1995)
   平成7年版『海南町史』

   1352年東寺百合文書・1392年相国寺供養記・1420年『満済准后日記』の3点史料掲示。
               参:「海部氏の中央政界との結びつき」
   しかし、大事件・重要な時期・中枢政権の人物がらみで登場という、
   状況や背景の説明が全くないまま、忘れ去られたような形になっていた。

平成17年(2005年)
   林田真典「海部・芝遺跡の発掘成果」海部公民館報

     徳島・香川・高知・岡山・関西地域の大量の土器が出土。

     3世紀の外来系土器の出土量は、今のところ県内最多。

     3世紀の時期に徳島・高知ルートが開発されたと考えられる。

平成19年(2007年)
   山川出版社『徳島県の歴史』2007年版が出る。

   中世海部氏が、徳島土着の国人として
   中央に食い込んでいる証拠史料について、

   扱わないのはまだしも、順序を格下げするという、
   不自然な記述になっている。

「相国寺落慶供養においては、
福家氏も指摘するように管領細川頼元の随兵中に、
小笠原氏・柿原氏・海部氏などがおり、」(P95以降)

            ここ「相国寺供養記」の原文では、順序が違う: 小笠原・海部・由木・柿原の順 
                   1392年『相国寺供養記(しょうこくじくようき)』原文