勘合貿易に見る瀬戸内海事情と南海路

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(1467年の「応仁の乱」から1551年の「大内氏滅亡」まで)
                            参考:『倭寇と勘合貿易』田中健夫・昭和36年・至文堂p96〜p109より

                               *『堺市史』昭和4(1929年)〜6年発行の、1巻巻末から2巻巻頭にかけて、
                                 応仁の乱前後の堺入港船と、その後の5回に及ぶ堺開帆の遣明船の状況が、
                                 詳しく解説されている、そうである。
                                            『堺市博物館報』吉田豊「中世堺の琉球貿易」p29より


 遣明船貿易(1401〜1547)は、応仁の乱以降は戦費調達目的という意味もある。
 約10年に一度。合計19回。

 瀬戸内海の情勢に影響したのは、堺商人と結んだ細川氏と、博多商人と結んだ大内氏の勢力争いである。

 *細川氏 初期の遣明船出発地は兵庫(現在の神戸港近く)である。
         兵庫のある摂津も、のある和泉も、室町初期から細川氏の支配。
         阿波・讃岐・淡路・河内なども支配。幕府管領を多く出す。

 *大内氏 大内教弘(1420年〜1465年)の頃、肥前・筑前・豊前・長門・周防・安芸・石見の7カ国を支配。
         瀬戸内海・北九州の海賊衆を配下に持つ。
         博多を中心にして、前代から中国・朝鮮との貿易が盛ん。
         応仁の乱で兵庫を取る。

第12回・応仁2年(1468)入明(兵庫発)
      帰りは、応仁の乱で、帰港地の兵庫が、大内氏の手中に落ちていた。
      大内船以外の、幕府船・細川船は、九州・土佐を回って堺へ戻った。
      (遣明船の南海路の始まりである)

第13回・文明9年(1477)入明(文明8年発)
      往路 四国・薩摩・博多・五島(南海路) → 中国へ
      復路 南海路
      (往復とも南海路

第14回・文明16年(1484)入明(文明15年発)
      往路 南海路
      復路 中国路(or西海路)(瀬戸内海)・文明18年帰港。

第15回・明応4年(1495)入明(明応2年発)
      
第16回・永正8年(1511)入明(永正3年発)
      往路 永正3年にを出て、山口を経て、永正8年に入明。

第17回・大永3年(1523)入明
      大内船・豊前発
      細川船・南海路
      別々に行き、正当性・優先順位の争いに贈賄がからみ、大内氏の騒乱に発展(「寧波の乱」)
      その結果、細川氏は遣明貿易から締め出され、大内氏の独占となる。

第18回・天文8年(1539)入明(天文7年博多発)
      3隻すべて大内船。

第19回・天文16年(1547)入明
      4隻すべて大内船。