『日本書紀の情報欠落と王朝交代の可能性について』    
          (YAHOO掲示板への、私の書き込みのまとめ)      

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                                    仮説・古墳時代正史(このページ掲載の疑問に応える、一通りの仮説)

「日本書紀の情報欠落」

日本書紀には、誰もが知っている重大な情報欠落がある。
それは古墳「時代」のことだ。

古墳時代は、350年以上に渡って、全国各地に5200基の前方後円(方)墳を築いた時代である。
全国の人々がそれを、自分の目と手と足で確認し続けた。

これは、記紀成立の100年ほど前まで、ほとんどの人が知っていたことである。

また記紀成立の当時も、多数が集中する近畿のみならず、
全国各地の交通の要所に、特徴的な小山となって目の前に見えていたはずである。

しかし日本書紀には、古墳の実際の姿については、一つたりとも出てこない。

日本書紀は、長期・膨大な古墳造営の時代について、わざと書かなかったのだろうか。それとも、知らなくて書けなかったのだろうか。

いずれにしても、これが書かれていないのは、正史としては重大な情報欠落ではないだろうか。

天皇家が、300年以上にわたる、全国的な古墳造営活動について、
自ら運営に関わっていたならば、
それを振り返って語ることがない、というのは、不自然である。

さらにまた、古墳時代と平安時代では、違うことがたくさんありすぎる。

大化の改新の直後に「薄葬令」を出して、古墳造営社会を否定し、

自家の墓制についても、前方後円墳という形式は継承していない。

古墳時代の玉飾りや金冠・金色装飾も消えた。

女性はスカートから十二単に、髪は結髪からたらし髪に変わり、

武具・馬具による乗馬のイメージから、牛車へと転換した。

これら習俗の転換は、和風文化への移行と説明されている。
しかし一方、古墳文化に対しては、否定的な変化である。

天皇家は、古墳時代にもこの国を治めていたのだろうか。


11.30 「日本書紀に隠されたウソ」

日本人は、350年間で全国各地に5200基の前方後円墳を作りました。
(近藤義郎編『前方後円墳集成・全6巻』山川出版社)


飛鳥・奈良時代に権力を固めた天皇家は、
実際に目の前に見えている巨大古墳や古墳群のことを「一言も書かない」、
『日本書紀』という本を作りました。

それには、「神代の昔から、天皇家はこの国を治めていた」と書いてありました。

    神代の昔から日本を治めていたのなら、
    どうして、全国に前方後円墳を作った「350年間の古墳時代」や、
    目の前に見えている古墳のことを書かないのでしょうか。

      *ここに「虚偽」の可能性を読むのは私だけでしょうか。

    大古墳はほとんど未調査です。
    宮内庁が調査を拒否しているからです。

    墳丘全長が200メートルを超える巨大古墳は、全国で34基(35基とも)ありますが、
    そのうち26基は、調査できません。
    
    陵墓古墳は2府15県にわたって240基もあるのですが、
    全部が調査できないと言って良いのです。
(今井堯『天皇陵の解明』新泉社p134)

      *虚偽隠しではないと、どうして言えるのでしょうか。 


11.30 「明治以降の情報操作」

天皇家は幕末になって、日本書紀の記事を建て前に、
万世一系の天皇として西南雄藩にかつがれて登場されましたが、

登場される前からあった「情報操作」は、
明治になって讒謗(ざんぼう)律・不敬罪という法律による「弾圧」で強化されました。

(立花隆『天皇と東大』文芸春秋p218)
  例:新聞社説文中の「神武天皇もその始めは日向の一豪族だっただけ」という一節。禁獄2年、罰金百円。
    講談師が講談の枕に使った「銭(税)を取って高い所にいられるのは、天子さまと私ぐらいなもの」
    重禁固3月、罰金20円。  等々。

明治14年(1881年)には、
小学校教則綱領という、教育内容を指示した文書に、
「明治天皇が直接指示」したことによって、

「神代を歴史の初めとする」歴史教育が始まりました。
(立花隆上掲書p224、山住正巳『日本教育小史』岩波新書p41記事の『江木千之翁経歴談』上1935年)

明治36年(1903年)、小学校教科書が国定化され、全国一斉に統一教科書が使われるようになりました。

その国定日本史教科書は、
  「天照大神(あまてらすおおみかみ)はわが天皇陛下のご先祖にてまします」
という、神代から始まるものでした。(山住正巳『教科書』岩波新書p58)

その神代から始まる歴史教科書は、1945年の敗戦まで、
実に40年間、礼拝儀式とともに、「子ども達の脳髄にしみこむように」(立花同上)使われたものなのです。

大正14年(1925年)に、
普通選挙法と引き換えのようにできた治安維持法成立後の言論弾圧は、
言うまでもないことです。

学問への介入も激しいものでした。
昭和の天皇機関説問題は有名ですが、明治時代の歴史学に対する弾圧も、顕著なものがありました。

天皇崇拝というのは、とても自然発生的なものとは思えません。


12.1 「古墳時代の情景」

数多くの巨大古墳が出来上がった時代の光景は、
以下のようなものだと想像されています。

 巨大前方後円墳は、
  南部朝鮮や北部九州など、西方から来た人々に対して、
  時の政治権力の大きさや政治中枢の所在を、
  目に見えるものにした。

  船で西方各地から大和政権の拠点に向かうと、

  淡路島をはさんだ南北どちらの海峡でも、
  巨大前方後円墳を仰ぎ見ながら航行することになる。

  大阪・住吉津(すみのえのつ)に上陸すると、
  右手に「百舌鳥古墳群」の累々たる墳墓を眺め、
  さらに東方に歩を進めると「古市古墳群」が圧倒的な量感で迫る。

  奈良盆地に入ると、
  「馬見古墳群」を右手に、左手遠方には「佐紀古墳群」を、
  はるか正面の三輪山麓には「大和・柳本古墳群」を望む。

  荘厳性、威圧性、隔絶性にすぐれた巨大前方後円墳は、
  相互に連携しながら
 「目に見える前方後円墳国家」としての威力を存分に発揮するのだ。(広瀬和雄)


天皇家は、この光景を作るのに、何も考えることがなかったのでしょうか。

これらを作るのに、どれほどの労力を要したか、いろいろ考察がなされています。

それらの人智と労力の集約のために、天皇家は心を砕かず、書くこともなかったのでしょうか。


12.5  「目に見える国家と地方有力者」

前方後円(方)墳の造営には、
   様々な技術と多数の人員、
   時の実力者と「共通する」、埋葬様式の知識と埋葬品、
が、使われています。

人が亡くなった時、誰でもこのような埋葬の仕方ができるわけではないでしょう。

分散して古墳が存在する地方では、このような埋葬をするための、知識と技術と品物を、
よそから手に入れなければならなかったでしょう。

また、その地域でも多数の人を動員できるだけの、
権威と説得力、そして地元住民の同意が得られるだけの、
共通利害に関する認識基盤がなければできないでしょう。

みんなで作れば何のご利益があるか、それが住民の理解を得られなければ、
大きな古墳など、つくれるものではありません。

それは、近畿に集中して作られた、
日常生活のレベルからかけ離れた巨大古墳にも言えることです。

では一体何のご利益があると考えられたのでしょうか。
一つには、上記のような光景、大和政権を中心とする「目に見える国家」の創出ということが考えられます。


12.2. 「前方後円墳の全国分布」

何十年も前から、前方後円墳の全国分布を載せている教科書があります。

南は九州から、北は東北まで、全国に分布している前方後円墳を「点」で示した地図です。

初めてそれを見る子ども達に、
「この古墳に埋葬された人たちの子孫は、何になると思う?」

と質問したら、かなりの子どもが「武士になる」と答える、と聞きました。

それほどに、全国に拡散して土着する傾向、圧倒的なその数量、
社会層としてまとまって把握できる集団、後世に大きな足跡を残し続ける社会層として、

前方後円墳と各地の「領主的武士」というのは、イメージを連結しやすいものらしいのです。

では、陵墓とみなされた巨大前方後円墳の子孫だけは、天皇家になるのでしょうか。


前方後円という古墳の形は同じです。埋葬形式や埋葬品も、時期が同じなら共通しています。

古墳時代の最実力者は、全国各地の有力者に、自分と同じ埋葬形式を採用させています。

これは、後の天皇家のやり方とは、大きく異なります。
私たちは、古墳時代の最有力者が、後の天皇家とは別種の統治法を採用していたことを感じます。

だから、日本の成り立ちを考えるならば、古墳時代をも考慮しないと、
数と力と方法の面で、舵の取り間違いを起こす可能性があるでしょう。

皇室問題を考える際、天皇家とは何か、という問題は、常についてまわるものです。

つまり、古墳時代には、今まで考えなかった異種類の統治法が、日本全土を覆っていて、
強力な潜在勢力を地方に涵養し続けたことを、考慮に入れないわけにはいかない、ということです。

それを考えるのに、陵墓古墳の調査は不可欠ですが、
宮内庁は、それを拒否することによって、日本全体の問題の解明を、阻んでいるのです。


12.3 「天皇家と武家」

すでに書いたように、古墳時代の最実力者は、地方勢力のある種の層を優遇しました。

しかし飛鳥・奈良時代以降の天皇家は、中央に権力を集中させました。

この大きな違いは、天皇家が時代の変化に対応した、ということだけでしょうか。
王朝交代ではないでしょうか。

もし王朝交代なら、天皇家の起源にかかわる、保守層喧伝の伝説『万世一系』の否定であり、
国が天皇家を維持するための、有力な説明の一つがなくなるということでもあります。

今日まで全国に残るほどの大土木工事社会の運営に、
時の最実力者たちは、細心の注意を払って、大きさや埋葬品の種類や多寡、造営場所、埋葬者の選定をし、
その結果、全国各地の地方有力者を厚遇するという、史上初の事例を作ったものだと思われます。

しかしこれが、記紀には全く出てきません。


12.6.「古墳時代の祭祀が育んだもの」

前方後円墳は、
  「亡き首長が、神になって国や村を守る」という信仰によって作られた、
という説があります。

お墓らしくない点がいろいろあります。
人は「死」に対して暗いイメージを持つことが多いはずですが、
前方後円墳は、人が往来する目立つ場所に、大きく派手に目立つように作られています。

また特に、でき始めてしばらくの間、つまり前期の古墳には、食器などの生活用品が全く副葬されません。

代わりに何が多いかと言うと、国や村という、共同体のためのものが多いのです。

(1)「権威を示す道具」
(2)集団の利害対立を解決するための最終手段である暴力を表す「武器・武具」
(3)鎌・鋤・斧・漁具などの「生産のための道具」

これらが、個人所有にしては多すぎるほど副葬される。
まるで、「死後も道具を手にして働いてほしい」と言わんばかりです。

これは、東アジアの同じ時期の墳墓と比べると、まるで逆で、はっきり違う点だそうです。
         (参:広瀬和雄『前方後円墳の世界』岩波新書p38、同『前方後円墳国家』角川選書)

この説に従うと、首長が亡くなると、どうかこの国や村を守ってください、と願いながら埋葬し、
人々は古墳を見上げながら、安全・守護を祈りつつ、行き来していたことになります。

また、この前方後円墳祭祀に参加すると、自分たちもそのネットワークに参加することになって、

中央と地方、あるいは地方同士で、「物」や「人」や「情報」の流れが生まれ、
自給できないものを相互にやりとりすることで、

国や村の維持・活動が、うまくいくようになる、

そういうことも、期待された、ということになります。

つまりここに描かれた世界は、日本書紀の描く世界とは、全然違うのです。

こういう世界を切って捨てたとしたら、日本書紀とは、一体何なのでしょう。
これは王朝交代の印ではないでしょうか。

  (広瀬氏が立場を問われるようなことになって迷惑をかけては困るので、
   「広瀬氏の立場は、私にはわからない」、としか言えません。念のため。)