塩尻峠の合戦
    ・・・江戸期成立の戦記物がいかに信用できないか・・・(史料批判の実例)
                                                 今井登志喜『歴史学研究法』東大出版より
       (海部歴史論集)へ戻る        島弥九郎と『土佐物語』へ戻る    今井登志喜『歴史学研究法』全文

                                              
                          
                                   

 「塩尻峠の合戦」とは、1548年(天文17年)7月19日武田信玄が、小笠原長時を、信州塩尻峠で撃破した戦いである。
残された史料8種から、戦国時代の戦いが、江戸時代になって「戦史」として書かれた事例を考えてみよう。

(1) 武田信玄が出した感状
(2) 諏訪神使御頭之日記
(3) 妙法寺記
(4) 溝口家記
(5) 二木家記(壽斎記)
(6) 岩岡家記
(7) 小平物語
(8) 甲陽軍鑑

 時代の下る記録で、「塩尻峠の合戦」を載せているものは多数ある。しかしそれらは、余りにも明瞭に『甲陽軍鑑』の影響を受けたものである。したがって、ここでは取り上げない。
 なお、この合戦に関する「口碑」も、若干この地方に伝わっているが、要するにこの峠に戦いがあったことを言い伝えているに過ぎない。したがって、史料として見るほどのものではない。
 一方、この峠を中心とする「地理」が、重要な史料となる。
 では以下に8種の史料を紹介する。入力の便宜上、いささか不都合ながら、常用漢字になっている部分もあるが、ご容赦願う。

(1)武田信玄が出した感状(p92)



 今十九卯刻、於信州塚魔郡塩尻峠一戦之(みぎり)、頸壱討捕條、神妙之至(そうろう)(いよいよ)可抽忠信事肝要候、(よって)如件(くだんのごとし)
 天文十七戊申
   七月十九日       晴信(朱印)
                  波間右近進との(どの)



 この感状の意味は、大体、以下のようなものである。
天文17年(1548年)7月19日、朝6時信州塩尻峠の一戦で、首を一つ討ち取ったこと、神妙である。いよいよ忠信が肝要である。以上。晴信(武田信玄)。」
 この他、甲州文書の中に、同一文句のもので、宛名が土橋惣右衛門尉どの、というのがある。
 また、木曽考に載っている、信玄父子義昌朱印書札という中の、大村與右衛門という人物に宛てた、信玄の感状三通の中の一通も、同一文句である。
 もう一つは、武田三代軍記に載っている、小山田平治左衛門あてのもの。この書物は全く信用できないが、この文書だけは上の三通と同じで、その類のものがあったと思われる。
 
(2)諏訪神使御頭之日記
 長野県諏訪大社の御柱祭は、その起源は平安時代以前と言われる古い祭りで、7年に一度行われる。テレビ中継で、斜面をすべり落ちる大木に乗る男たちを、見たことがある人も多いのではないだろうか。
諏訪大社の外宮にまで討ち入った小笠原氏の動きは、この祭りの進行に影響したため、神官の記録に残されることになった。しかしそれだけではない。当時の社寺は相当な武力勢力でもあった。武田側の勢力でもあった、という意味があるらしい。

天文十七年の記事


一、 四月五日ニ村上小笠原仁科藤沢同心ニ、当方ヘ外宮まで討入、たいら()放火候て、則帰陣候。然間(しかるあいだ)、御柱、十五日ニ甲州ヨリ、無相違被為曳候。神長禰宜其外社家衆、田部籠屋ヨリ帰村(つかまつり)候。

一、 六月十日に小笠原殿外宮まで打入、外宮地下人(ばかり)出相、馬廻下侍十七騎、雑兵百騎、討取候。小笠原殿、二箇所手おはれ候。宮移之御罰と風聞候。其上、村上仁科小笠原、御柱宮移ニさはられ候間、末々も可有神罰候。

一、 この年七月十日ニ西之一族衆並矢島花岡甲州え逆心故、諏訪乱入候。神長千野殿、従河西上原え移り候。同十九日に西方破悉放火候て、其日 武田殿小笠原殿於勝○(注:1字不明)一戦候て武田殿打勝、小笠原衆上兵共ニ、千余人討死候。


以下、大体の意味。
1、4月5日、村上・小笠原・仁科・藤沢の諸豪族が同盟して、信玄の支配地である当方諏訪神社の外宮まで討ち入り、放火し、帰った。しかしながら、御柱は、4月15日に甲州方で、決まりどうりに曳いてすました。

1、6月10日、小笠原殿が外宮まで討ち入り、外宮では地下人(人民)ばかりが出て相手をし、馬廻り・下侍など17騎、雑兵百騎を討ち取った。小笠原殿は二ヶ所傷を負った。宮移の邪魔をした罰が当たったのだと風聞が立った。

1、この年7月10日、西の一族衆や矢島・花岡の諸氏が、武田に対して逆心し、諏訪に乱入した。同19日に、西方(反乱者側)が悉く破れ、放火された。その日、信玄が小笠原長時を勝○に撃破し、小笠原衆が千余人、戦死した。

 *「勝○」というのは、塩尻峠の南方の「勝弦」という所ではないかと言われる。
 *この史料が最も難解とされる。当時のこの地の事情の知識がないと理解できない。文章も、表現が断片的、かつ不完全。(p123)

順序を整理すると、4月5日、信玄の支配地である諏訪に信州南北の諸豪族の侵入があり、6月10日にはまた小笠原が侵入し、下社の人民と戦った。7月10日、郡内に武田氏に対する反乱が起こった。7月19日の動きは、(1)の感状に朝6時(卯刻)とあることから、7月19日早朝、信玄はまず、小笠原長時を急襲して致命的な打撃を与え、その後、悠々と郡内の反乱を掃蕩した。ということであろう。小笠原の侵入と郡内の反乱は、無関係ではないはず。

 これら(1)(2)を見ると、戦闘があった日時は、1548年(天文17年)7月19日に間違いない、と思われる。
ところが、である。これ以降の史料になると、徐々に日時がずれるようになる。最後の、江戸時代成立の、極めて影響力のあった軍学書『甲陽軍鑑』になると、3年も食い違ってしまうのである。

(3)妙法寺記
 天文十七年の記事(文政9年の版本による)


 此年七月十五日、信州塩尻嶺ニ、小笠原殿五千(ばかり)ニ而(にて)、御陣被成(なされ)候ヲ、甲州人数、朝懸(あさがけ)被成(なされ)(そうろう)()(ことごとく)、小笠原殿人数ヲ打殺シ、被食(くわれ)候。



 大体の意味は、「天文17年7月15日、信玄は、長時が5千の兵で塩尻峠に陣を敷いたのを、早朝攻撃し、全滅させた。」

 山梨県南都留郡木立妙法寺の主僧が代々書き継いだ年代記で、文正元年から永禄4年まで、96年にわたり、きわめて素朴に毎年の豊凶治乱等の大事件を略述している。

 以上(1)〜(3)までは、根本史料とされる
 ここに記した感状は、戦闘があったことの結果として、当時の状況下で、自然に残ったものの一つである。それを、所有者は、大事に保存し続けた。 
この感状については、疑いを入れられない「実物」が存在する。

疑いを入れられない、という意味は、
1、 紙・墨色、書風、筆意、文章的形式、言葉、印章などを吟味して、まず間違いなく本物であろう、とされること。
2、 その史料の内容が、他の正しい史料と符号して矛盾しないこと。
3、 その史料の形式および内容が、その関係することで、発展的に連絡する。またその関係することで、その性質に適合し、ありそうだ、という判断を持たせる。
4、 その史料自体に、何の作為の痕跡も認められない。
    ただし、その作為の痕跡の有無について、以下のような吟味がなされる。
  A、 満足な説明がないままに、遅れて世に出たというような、その史料の発見等に、珍妙で不審な点はないか。
  B、 その作者が見るはずのない、または当時存在しなかった、他の史料の模倣や利用が、証明されるようなことはないか。
  C、 古めかしく見せる細工から来た、その時代の様式に合わない時代錯誤はないか。
  D、 その史料そのものの性質および目的にはない種類の、偽作の動機から来たと見られる傾向はないか。
    その他、偽作が、その内容の種本にした史料との比較によって、明らかにその偽作であることを示す場合など、発見の手がかりになることは、 いろいろあるだろう。(p40〜42)

 上記のような、確かに本物かどうかという吟味を経て、この感状は「実物」と判断されたのである。

 この「感状」が、「ある事柄の結果として自然に残ったもの(遺物)」(p24)であることは疑いない。だから「その事柄の痕跡」としての信頼性は絶対的である。

 「諏訪神使御頭之日記」と「妙法寺記」の記事は、ともに同時代人の見聞の記録である。そのことの観察の、最初の伝承である。少なくとも、この種のものまでは、いわゆる「根本史料」とするべきものである。(P118)



(4)溝口家記(信濃史料叢書所収)
 *** これに載っている小笠原長時の伝記の記事

三十一之年、於諏訪峠、武田晴信法名信玄と打向合戦刻、西牧四郎左衛門、()洗馬之三村駿河守同心に、其勢千四五百、企逆心、於後之峠、鯨波を咄と上る。

無據(よんどころなき)に付()、両人之方に被馳向(はせむかわれ)、両所の勢傍え引退、不及(およばず)是非、塩尻長井坂を御退候。後より慕、長時帰合、不知数(かずしれず)打捨に被成候。適大将之由、後々申伝候。

 
(5)二木家記(または壽斎記)(信濃史料叢書所収)
*** この記事は非常に長いが、この種のものの性質を示すことと、次の小平物語との親近性を証明するために、全体を掲げる。

 長時公、家老衆を召て被仰(おおせられ)候は、下の諏訪に、武田晴信より城代を被置(おかれ)候事、信濃侍の瑕瑾(かきん)と被仰候て、諏訪の城代、追払可申(もうすべく)被仰、

則両軍の侍、仁科道外、洗馬の三村入道、山邊、西牧殿、青柳、苅屋原、赤澤、島立殿、犬甘殿、平瀬殿、其外長時公御旗本衆、神田の将監、標葉、下枝、草間、桐原、瀬黒、何もさうしや、村井、塩尻衆、征矢野、大池各也、二木豊後、舎弟土佐、三男六郎右衛門、兄弟三人也、豊後子萬太郎、土佐子萬五郎弟源五郎兄弟也。此源五郎は土佐二番目の子にて候。兄は草間肥前が養子に罷成りて、草間源五郎と申候。
長時公近習仕、林に住所、御旗本に罷在候。
二木豊後、同土佐、同六郎衛門、同萬太郎是は壽最事也、同萬五郎五人は、西牧殿備と一所に罷立候。

惣軍勢、林を立て、下の諏訪へ取掛、晴信公より被置城代を、手きつく責申候、四月中旬なり。強く責申候故、長時公へ城相渡可申候間、御馬を少御退可被下由申候に付て、城を受取可申處に、

仁科道外、望被申(もうされ)候は、

下の諏訪、被下(くだされ)候へ。左候はば甲斐の国迄の先掛を仕。晴信と一合戦仕候はん、と望申候(ところ)に、

長時公、被仰候は、我等縁(注:「稼」の誤り)のさきを望事、推参(すいさん)なり、と被仰に付て、
仁科道外、ほね折ても詮なしと被申、晴信朱印有とて、軍前をはづし、備を仁科へ引取申候。就其、城渡不申候。

然處(しかるところ)に晴信、後詰のために上の諏訪へ御着候。

(おのおの)申候は、諏訪を道外に出す間敷(まじく)と、長時公、被仰候は、御一代の可為御分別違、と申候。

長時公は、其日は諏訪の内四ツ屋と申(ところ)へ、御馬をあげられ候。夜明候て、諏訪峠に、御陣御取被成候。

其日の四ツに、軍はじまり申候。初合戦に、晴信先手を切崩し、四ツ屋迄敵下し、首百五十、長時の方へ取申候。其日の内に六度の軍に、五度は長時公の勝に候。

晴信には旗もとこたへ候付、六度目の合戦に、洗馬山邊、敗軍仕候に付、長時旗本にて懸つ返しつ軍御座候。御旗本衆、能者共、皆討死仕候故、長時公も、漸々林の城へ御引取被成候。

晴信公、泉迄御働、泉に陣を御取被成、林への手遣被成候處に、村上殿、小室へ働被申候由、御聞、早々引被申候。其時、長時公の衆、能者共、皆討死仕候。

洗馬逆心に付、西牧の衆二木一門の者、本道を退(しりぞく)不罷成(まかりならず)候て、櫻澤へかかり奈良井へ出、奈良井孫右衛門所にて、飯米合力に(注:「を」の誤り)請、御たけ越をして漸々西牧へ出申候。


***これは壽斎が16歳の年の記事である。別のところで「15歳の時が天文13甲辰の年」とある事からすると、この戦は天文14年だったことになる。


(6)岩岡家記(信濃史料叢書所収)

天文巳五月、長時公、信玄公と御取合之時、於諏訪峠、岩岡石見、討死仕候。是は拙者祖父にて御座候。


(7)小平物語(信濃史料叢書所収)

 天文十四乙巳歳、長時公老臣各を召て宣ふは、一両年已来(いらい)、武田晴信、上の諏訪の城に、舎弟天厩(てんきゅう)差置、下諏訪には、家老の板垣信方を置事、無念の至りなり。諏訪の城代を踏倒し、其時、晴信後詰において、有無の勝負と被仰渡(おおせわたされ)

仁科、洗馬、三村、山部、青柳主計、西巻、犬飼、赤澤、島立、平瀬、各の衆、大身旗頭なり。その外旗本、神田将監、泉石見、栗柴、宗社、草間、桐原、村井、塩尻、大池、二木豊後、同土佐、草間源五郎(割注:肥前養子)、二木弥右衛門(割注:豊後実子壽斎事)、丸山筑前守、此外、木曽同勢にて、

雑兵共に八千余騎の着到を以、塩尻を打越、諏訪近に陣を取、板垣が城を攻給ふ。

すでに本城ばかりになり、危き處に、又晴信後詰として、上諏訪迄御出にて、御先衆は甘利備前、両角豊後、原、栗原、穴山、小山田、御旗本にて日向大和守、小宮山、菅沼、今井伊勢守、長坂、逸見、南部、都合九千余騎の軍兵を以て、小笠原へ御向被成也。

長時公其日、四ツ谷といふ處、御馬被上、夜明て諏訪嶽に陣を取、同巳刻に軍始也。

晴信公の先手甘利、両角、原加賀守、栗原、穴山、小山田が兵崩て、味方、手負死人、大勢有之處、天厩一体を以て、諏訪勢、相支ふるなり。

長時公方の洗馬丸山を追返し、敵百五十八の首を取るなり。此時、強き働を、諏訪衆仕る。

一日に六度の戦続て、不切手に合候んは澤、茅野、高木、高梨、三澤、小平、両角なり。此両角は、両度迄、一番鑓を入るなり。

六度目の戦に、長時公の御内征矢野といふ大切の侍と、両角と馬上にて鑓を突合、互に柄を取て引合に、両方共に、其頃聞え有、武功由緒有、近付なば、是非勝負を眼前にて迫合處に、

長時公の内にて、洗馬三村入道山部逆心して、晴信方へ首六百取り、亦仁科道外も逆心仕り、武田方に成となん



(8)甲陽軍鑑

***この本は、「偽書」であることが証明されている、が、他の史料との関係から、該当する記事を全部あげる。
                                               (明暦2年・1656年・板による。注は今井)


同月(注:天文14年5月)十九日午の刻に、諏訪高島の城代板垣信形、飛脚を以て申上る。

塩尻へ、小笠原打ち出で到下(注:峠)をこしてこなたへ働き申す。又、伊奈衆も働き申候由、

晴信公聞召、時日をうつさず、即午の刻にこむろを打出給ひ、諏訪へ御馬をむけられ、いな衆をば、板垣信形、うけ取向ふ。

小笠原木曽の両敵には、晴信公向ひ給ひ、御さきは甘利備前、諸角豊後、原加賀守、右は栗原左衛門、穴山伊豆守、左は郡内の小山田左兵衛、天厩様、御旗本後備は日向大和、小宮山丹後、かつ沼殿、今井伊勢守、長坂左衛門、逸見殿、南部殿、都合七頭後備、

五月二十三日辰刻に、小笠原、塩尻到下を下て、木曽どのを筒勢(注:同勢)にして、到下に備を立てさせかかりて、軍を始むる。

小笠原兼々分別には度々晴信にあふて勝利を失ひ、如此に候はば、小笠原滅亡と存ぜられ、有無の合戦と、きはめ出られたしるしに、とき衆(注:さき衆の誤りか)三頭と暫く戦有。

其間に右備衆二頭にて到下を心懸、後ろへまはし、木曽殿備にかからんとするを見て、小笠原衆敗軍して勝利を失ふ。

小笠原木曽の両敵衆を晴信方へ討取、其数雑兵共に六百二十九の頸帳をもって、同日未の刻に勝時を執行給ふ。

天文十四年五月二十三日巳の刻に、木曽小笠原両旗にて、小笠原方よりしかも懸て軍をはじめ、晴信公は待合合戦にて勝利を得給ふ。信州塩尻峠合戦と申は是也。晴信公二十五歳の御時なり。



上記5史料の内、(4)(5)(8)について、その内容を略記する。(p126)

(4)溝口家記
 天文18年(溝口家記の中ではそういう計算になる)、小笠原長時が、信玄と諏訪峠(塩尻峠の別名)で数刻戦ったが、西牧・三村両人の武田方への内応によって、長時が敗北した。

(5)二木家記(または壽斎記)
 天文14年、長時が信玄の勢力を諏訪から一掃しようとして出陣したが、信玄の出兵によって、その夜四ツ屋に駐屯し、翌朝塩尻峠に上って信玄が来るのを待った。午前10時から戦闘が開始され、長時側は5回甲州軍の攻撃を撃退したが、6回目に三村等の内応によって敗れ、長時の精兵は皆戦死した。

(8)甲陽軍鑑
 天文14年5月23日午前10時、小笠原木曽の連合軍は、塩尻峠を下って、ちょうど出兵してきた信玄の軍と戦ったが、信玄は連合軍を撃破して、629の首級を得た。


 (4)溝口家記・(5)二木家記(壽斎記)・(6)岩岡家記は、ほぼ同じ性質のものである。(p107)

 小笠原氏は、天正18年(1590年)、家康の関東入国に従って下総に移ったが、関が原の後、秀政が慶長6年(1601年)、飯田(長野県)の城主となり、また故国に帰った。この時代、一度長く没落してようやく復興した小笠原氏の歴史および臣下の功績について、諸臣に書き出させたと、判断されるものである。

 これらはいずれも、主家の興亡を述べるとともに、自分の家の功績を、巧みに宣伝しているのである。

 二木壽斎は、長時の時以来の生き残りの家臣であり、その記憶によって、長時の没落、および子・貞慶(さだよし)の復興を記した形のものである。この書を提出した慶長16年は、82歳だったことになる。


1、史料は本物か(p102)

 (1)の「信玄の感状」については、疑問の余地のない実物が存在している。(2)の「諏訪神使御頭之日記」は、確かな原本が存在している。(3)の「妙法寺記」の真実性も疑う余地はない。

 (4) 溝口家記(5) 二木家記(壽斎記)(6) 岩岡家記および(7)小平物語は、いずれも著者自筆のものはないらしいが、書物そのものは偽書でないことは、内容や来歴の上から見て取れる。

 しかし(8)『甲陽軍鑑』は、高坂弾正昌信著となっているが、多くの考証によって、「偽書」であることが明らかにされている。これは、同時代の人物の実録である、として、著者と、書かれた時代を、偽った本なのである。

 しかしながら、江戸時代には、この本を元にした、小説的な歴史読み物が多数出た。のみならず、続本朝通鑑、列祖成蹟、逸史、日本外史、日本野史等、いずれもこれに拠ったので、史学史的に、非常に重要なものになった。

 本書は実に、わが国の偽書中の、最も著名、かつ、最も注意すべきものと言えるだろう。

 (以下、紛れ込み、脱落、変形についての考証、略す)


2、史料は、いつ、どこで、誰が、どのような人間関係の中で作ったか。who.what.when.where.why.how
8種の内、小平物語が一番新しい。
(時間や場所の遠近、筆者、作成時の人間関係、は重要である。略す。)


3、史料はオリジナルか、借用関係があるか(p108)
(1)(2)(3)は、それぞれオリジナルである。(4)の溝口家記も、他の史料との親近関係はない。
しかし(5)壽斎記(6)岩岡家記(7)小平物語(8)甲陽軍鑑は、内容的に親近関係があることが認められる。
(比較考証の詳細部分、略す。)


4、史料は信頼できるか(P117)

(1)「信玄の感状」は、戦闘があったから残った、事実の痕跡である。戦闘についての証拠力は絶対的である。

(2)と(3)は追記的な年代記(p106)であるが、(2)の方が場所的に近いので、信頼度はより高いであろう。(2)の筆者は、事件の場所から4里ほどの距離であり、しかもその峠をよく見ることができる。一方、(3)の筆者は何十里も離れていて、ある日時を経て、その戦に関する報告を得たのである。

(5)の「二木壽斎記」は、60年以上後の回想録である。直接経験者の証言であるから、非常に重んぜられるべきである。しかし時間が立ちすぎているので、錯誤の可能性に注意しなければならない。

(4)「溝口」・(6)「岩岡」両家記は、直接関係者の子弟が、その父兄から得た報告の再現である。同じく時間が立ちすぎているし、直接経験ではないから、形式的には、錯誤の可能性はさらに大と考えるべきである。

なお、(4)(5)(6)の3点は、ともに自家を宣伝する副目的を含んでいる。その点から、いずれも同様な虚偽の可能性がある。

これらの要素の他に、なお考えなければならないのは、陳述者の素質である。すなわち、記憶力および正直さが問題になる。これらを考慮に入れるならば、事件の直接経験者の証言が、必ずしも、間接経験者の証言よりも、錯誤・虚偽が少なく、信頼性が高い、とは、限らないことになる。

(7)の「小平物語」は、明らかに他からの借用が認められる。独立した証拠力があるとは認められないので、除外する。
ただし、戦国から徳川初年における武士の生活について、興味ある証拠を提供していたりする。史料の価値は、決まった基準で機械的に決めるようなことはできない。おのおのの場合について、個々に考えねばならない。

(8)「甲陽軍鑑」は偽書である。しかし文献として残ってきたものであり、その意味で、色々な場合に史料的な価値を持つ。
だが、「事件の証言」として見るならば、この種のものは、やっかいなものである。その意味について、以下に説明する。

      1、この種の証言は確かにある歴史的事実を含んでいる。それは著者が聞き集めた素材である。
        しかしそれは他人からの伝承である。
        伝承は人を経由するに従って変形する可能性を持つものである。甲陽軍鑑のようなものは、
        内容に歴史的要素を含んでいることは明らかだが、その部分も極めて間接的な伝承で、
        錯誤が多いと思われる性質を持ち、容易に信用し難い。

      2、この種の書物は、その一方、宣伝的な性質のものであり、また、広義の文学的作品である。
        それゆえに、それは多分に利己的、または芸術的な目的からくる、虚構性を帯びている。
        従って、もしその中に若干の事実性があったとしても、それを作為的要素から(ふる)
        いにかけることが難しい。

これらの理由から、「甲陽軍鑑」のようなものを、事実の証言とすることは、躊躇しなければならない。しかしこれが使えないとなると、(5)(6)との記事の親近性を、どう考えるかと言う問題が出てくる。「甲陽軍鑑」の方が根本なら、二木・岩岡家記の信頼性についての評価が、逆転するからだ。


5、史料をどう解釈するか(p122)
史料の大意の部分は、略す。

地理は重要な史料である。地理は遺物であり、ただこれを解釈することによってのみ、史料となるのである。

 塩尻峠は筑摩諏訪両郡の境界をなす所で、標高千メートルをわずかに越している。しかし諏訪湖面すら海抜約760メートルに達しているから、事実上、峠は高くないのであり、江戸時代、中山道中ではむしろすこぶる小峠というべきものであった。ただ甲府と松本との間においては、唯一の峠である。

 天文時代の峠は、徳川時代の中山道の数町南にあり、この山脈の最低所を通り、現在古道(ふるみち)の名を残している。信玄の根拠地たる甲府よりは約18里であるが、長時の林の城よりはわずかに5里余りに過ぎない。長時の領地からいえば、ここが突破される時、もはや敵は直ちに城下に殺到する危険に陥るのであり、すこぶる重要な防御地点である。

 峠の西側は長くゆるやかに、東側は短く急である。それゆえにこの地点は、東方からの攻撃に対する防御において、はるかに有効である。この峠が戦場になったことは、明らかに長時が防御的であり、信玄が攻撃的であったことを意味する。それは両者の兵力に関係があるであろう。信玄の兵力はすでに少なくとも甲斐一円から徴集されて来るに反し、長時の兵力は大体わずかに筑摩安曇二郡の武士群に過ぎない。それゆえに信玄が全力を挙げて来る時、長時が防御的になるのは当然である。

 峠が戦場となる時には、必ずしも道路によって行われたのではないであろう。すなわち両者の戦略的必要から、時に道路を無視した展開をなすべきである。御頭之日記に別の地名が出ているのは、それに関係するであろう。

6、史実の決定(p128)
史料を基礎として史実が決定される。

戦の日時は、天文17年7月19日早朝である。

「信玄感状」を基礎に、「諏訪神使御頭之日記」「妙法寺記」を傍証とする。妙法寺記の7月15日は、遠距離かつ間接情報であるための錯誤であろう。ただし、誤写の可能性もある。

溝口家記の天文18年は、60年後ということによる錯誤であろう。

壽斎記・岩岡家記・甲陽軍鑑は天文14年としているが、これを採用すると、同じ場所で同じ相手によって、二回戦いがあったことになる。しかし、基礎的な史料においては、どちらか一方を載せ、決して同時に両方を載せていない。すべての史料がただ1回の戦を報告している。これはすなわち「沈黙の証拠」であり、戦がただ一度であったことを証明する。

ゆえに、これは、相矛盾する証言と見るべきである。17年の戦は確実な証拠によって立証されるが、14年の戦には確実な証拠がない。また、同年の他の確実な事件、すなわち信玄の箕輪攻撃等と連絡しない。ゆえに、14年は、17年を誤り伝えたと見なければならない。

次に確実なことは、信玄の勝利が決定的であったことである。

信玄の敵は小笠原木曽の連合軍だったと「甲陽軍鑑」は記すが、他の史料には全然出てこない。
長時は単独で戦ったと解される。
壽斎記に、仁科が攻撃半ばにして陣を去ったことを、「御一代の御分別違いなるべし」と書いてあるのは、最も可能性のある仁科さえ、行動を共にしていないことを示す。

長時方の敗因として、小笠原方の史料「溝口家記」「二木壽斎記」は三村等の裏切りをあげている。これは相当ありうることと見なすべきである。溝口家記と壽斎記には親近性がない。その上で双方の証言が一致しているのは、これを裏付けるであろう。

敵の力を分裂させることは、信玄の慣用手段とも言うべきものであり、この時にも十分あり得た。

壽斎記に、長時が先に諏訪に出兵し、信玄の到来によって若干軍を回し、この朝、峠に上って敵の攻撃に備えた、と記しているのは実情であろう。双方の根拠地の距離の関係から見て、また諏訪におけるこの時の反乱から見て、それが当然であり、その上壽斎が、当時若武者として一族と共に参加しており、この点までも誤る事は、まずあり得ないからだ。

原書の「補足」では、別の史料を追加して、上記の説明もまた間違っていて、小笠原の軍は、どうやら眠りこんでいたらしい、という話になっている。

神長官訴状覚書案書

   七月十九日卯刻に、甲○塩尻峠に押寄(ところ)ニ、峠の御陣ニ()(いたす)武田人、一人も無之(これなく)過半()、不起合体に候

とあるのによる。P146)

7、歴史的な関連を構成する。(p133)
当時の形勢の推移の中に配合し、その全体的な関連を、因果的に究明する。

信玄は、天文10年自立の後、直ちに父の政策を変更し、諏訪氏を滅ぼしてその地を奪い、高遠を破り、箕輪を攻め、さらに天文15年以後3年に渡って佐久、小縣にほこさきを転じた。しかし天文17年2月、上田原の戦で負けた。諏訪、佐久が動揺し、信州諸将の反武田同盟が成立した。そういう時、小笠原長時を塩尻峠の戦いで破ったのである。小笠原が倒れたら、他の勢力もそがれてしまう。以後、侵略は着々と進んだ。


8、歴史的意義の把握((p139)
信玄の戦争史において、また信州諸侯の歴史において、塩尻峠の戦いの意義は大きい。この一戦によって、信玄の信州併呑は決定的となったのである。


上の文章は、私が、史料批判抜きで歴史が語られることに対して、危機感を持って作成したものです。
多くの方に見てもらいたいし、史料を全文掲出したのは、コピー利用を想定してのことではあります。
それほどに、近時の歴史学の動向は、危機的だと、私は思っています。

しかし、同時に、これは私個人の手作業による、長時間労働の成果です。
安直に利用しないでください。作成当初に連絡した自治体などもあり、著作に関しては証明者がいます。
また、危機感があるだけに、多数に紹介予定でもあり、自分の名前で売らないでいただきたい、と思います。

今井著は、現在、著作権の切れた絶版本です。私は、自分の方法論の立場から、今井著に関心があるのです。

        ***国会図書館納本『ものの見方の始めについて』著者、北天翠翔 (久武喜久代)  suisyou2006@nifty.com
                   欠点の多い、つたない本ですが、問題意識の原点は、子どもの頃からの、自分の方法論です。***

この今井著を誰も気にしないところを見ると、この本を知る人も、私のような関心の持ち方は、しないようです。
私は、史料批判の論理の常識化が必要だと考えます。誰でも、その考え方を身につけるべきです。

 私は自著の中で、今井登志喜の弟子に当たるらしい林健太郎氏の『史学概論』について、正面衝突のショックを受けたことを書いてありますが、今井著と林著の関係、史学思想史、史料批判常識化のためのサイトUPなど、今井著はどうしても気になる本です。それなのに、参照しにくくて困るので、ここに、現代文?にした、今井著『歴史学研究法』を、作成していきたいと思います。

旧字体を新字体に直し、文語調を口語調に直し、長い文を分け、易しい語句に直した程度のものです。歴史学は戦前、筆禍事件の多かった分野でもありました。今井登志喜氏は、検閲に引っかからないようにするために、わざと難解な表現を使ったのではないかと疑っています。同時期の他の出版物と比較してみたいものだと思っているのですが。現代文版・今井登志喜『歴史学研究法』