『戦国三好一族』今谷明著(1985)の疑問
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今谷先生には、このサイトで、御著書を二箇所使わせていただいているほど
(兵庫北関入船納帳・遣明船での日本刀交易)、お世話になっている。
それに、興味深い記述もある本について、一部を取り上げて論難するようなことは、誠に不本意ではある。
しかし、「海部」認識の、ある傾向を形成するのに力を貸しているようなことでは、とりあげないわけにはいかない。
以下に原文を掲げる。
*******(新人物往来社版・p20より・他社版もある)*******
同様に、海部郡から土佐安芸郡にかけて高温多湿と豊富な太陽光線に恵まれ、
木材の生育に最も適していたことが、中世の阿波をして木材王国たらしめた基本要因と思われるが、
紀伊水道という海運の便があることも見逃せない。
この豊富な林産材を原料として、古代から造船業が発達した。
阿波海部郡は淡路三原郡海士(阿万)、紀伊海部郡とならんで往古の”海の民”の居住地といわれ、
舟運の萌芽は相当早い時代とみられるが、
新羅征討用の船舶の2割をこの沿海で作らしめたこと、
平安初期の山崎橋の材を阿波・讃岐・伊予の3国に求めた等の事実は、
林業・造船業がこの地の主要産業であったことを裏付けている。
承平5年(935)、土佐国司紀貫之が任はてて後、この海域にさしかかったとき、
この辺、海賊のおそりあり、といへば神仏をいのる。
海賊
まことにやあらむ、海賊追ふといへば、夜中ばかりより舟をいだして漕ぎ来つる。
などと、しきりに海賊の襲来におびえているのは、
この近辺の海民が半ばは海上の
ことほど左様に、阿波・淡路・紀伊の沿海住民等は船を下駄のようにあやつって、
自由に海域を往来していたと思われるのである。
数ある諸国の戦国大名中、海をへだてて上洛を果たしたのは、三好氏ただひとりである。
・・・・・・・(ヨーロッパの例。4行ほど略)・・・・・・・
三好氏の畿内進出も、淡路・阿波水軍の掌握が前提となる。まして阿波ー和泉の間には、
鳴門海峡・紀淡海峡という潮流の激しい危険な海域が横たわっている。
老練な水先案内人と船乗りを多数擁していなければ、
機動性のある軍隊の移動など到底不可能であったろう。
阿波の武士たちが堺に幕府をつくるなどという破天荒なことをやってのけた裏には、
藍と木材による富と、水軍の活躍が三好氏に利したという事情があげられよう。
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紀貫之の『土佐日記』のコースはいろいろに言われているが、この海賊云々の海域は一体どこで、
今谷先生は、どこを想定しておられるのだろうか。
『土佐日記』を読むと、海部を通りすぎた、日和佐より北ではないかという気がするが、
地名が出てこないのでとにかく確定はできない。
しかし、今谷先生の文章だと、阿波海部が海の民の居住地だったと、特に取り上げておられるので、
この海域は、まるで海部のことのようだ。
しかし木材による富にも触れておられる。
そうなると、どうして掠奪を生業にする必要があるのかわからない。
全般的に、意味することが明確に伝わらない文章の中で、
海部が海賊の海域とも読めるような、不明朗な表現なのは、大いに問題だと思う。
それに、海をへだてて京都へ行った、ことに限るなら、
海部氏の方が100年以上も前に、京都で細川氏に幕府奉書を受けて活動し、(1)
相国寺落慶供養式典にも管領の隋兵として名前を残している。(2)
黒衣の宰相と言われた高僧の残した根本史料に、足利義持将軍が切り出した話題として、
記録された話の中に、海部氏が出てくるのである。(3) (以上3史料・海部氏の中央政界との結びつき)
三好氏より前に、太平洋側ダントツ1位の海部海運隆盛の証拠を、兵庫北関入船納帳に残している。
(阿波・土佐の主要港)