現代文・今井『歴研法』5
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5、総合
他の多くの科学においては、材料は同時にその学問の対象である。
しかし歴史学においては、
ニーブールが史料の調査を坑夫の仕事になぞらえ、
「地下の仕事」()と言っているように、
史料はただ手段であるだけであり、
その批判は、歴史学の基礎工事に過ぎない。
批判によってその証拠力の程度が吟味された史料を使って、
その目的とする歴史認識に達する仕事がすなわち総合である。
これは歴史研究においても、最も重要な仕事である。(私注:原文・職能を仕事に)
註:5章、総合の見出し (1) 史料の解釈
(2) 史実の決定
(3) 歴史的関連の構成
(4) 歴史的意義の把握
(1) 史料の解釈()
先に述べたように、史料の解釈はすでに史料収集の時に始まる。
そして批判作業というものは、史料解釈を伴うことによって、初めて可能となる。
史料の性質が十分吟味されて後、さらに十分な解釈が与えられる。
史料は正しい解釈によって初めて研究に役立つのである。
遺物は沈黙して、それ自身では直接に説明しない。それを生かすのは解釈によるのである。
遺物の史料的価値は絶対的であるが、解釈を誤ればまったく誤った結論に到達する。
遺物が証拠となるのはただ解釈を通してであり、
遺物にとって解釈は、最初のまた最後の条件である。
一例を挙げれば、有史以前の遺物に、へこみ石なるものがある。
これが何に使用されたかが解釈されなければ、ほとんど史料としての価値がない。
しかし多くの未開人の発火法を知ることによって、
これが原始的な発火法に使われるものであることが明らかになれば、
この石が各所に出ることによって、古代の人民が、
未開人と同様の発火法をおこなったことが解釈されるのである。
しかしこういう解釈において注意すべきことは、
それが証明する範囲をよく考えることである。
たとえば条約、招待、会合、法律、威嚇等に関する文献を遺物として使用するとき、
これらのことがすべて実施を見たと解釈されてはならない。
これらの史料は、その実施については、なんら肯定も否定もしていないのである。
ある禁止事項の文献があったとすれば、
このような種類のことがしばしば犯されたことを示している、
とは解釈できるのであるが、
この禁止が徹底して、その違反がなくなった、という解釈は、立てられないのである。
文献的史料は言語文字によって表現されており、その言語文字を解釈することは、その出発点である。
解釈できない文献は、採掘されない鉱山に等しい。
多くの古代文字の解読が、古代史に新しい世界を開いたことは著名な事実である。
歴史研究は、その時代の文献を解釈することが深いほど、有利な武器を持つことになるのである。
歴史学と文献学()の概念の決定に関する論争が、かつて大いに学界をにぎわしたが、
それは一面、言語文字の解釈が、歴史学にとっていかに密接な関係を持つか、を物語るものである。
史料の解釈は、ただ言語の意味のみならず、さらに歴史的対象の説明者であるという意味で、
解釈されなければならないことは言うまでもない。
そのためには、その史料の証明し得る事項に関する知識が、深くなければならない。
それは常にその背景となる歴史的事実の知識であり、またしばしば各種の補助学科の知識である。
例えば古書の内容は、時に極めて断片的である。
それを適当に解釈して十分な証拠力を発揮させるには、
その周囲の事情が明瞭であることが必要である。
それでその古書の断片的内容が生きてくるのである。
同様に、ある古典の記事のようなものは、
記事が簡単で、しかも今と事情を異にしている時代のことであるために、よく理解できない場合、
これと他の多くの歴史的事例とを比較し、
また社会学、法律学、民俗学、経済学等を補助学科として、解説される例は少なくない。
すなわち類推的推理の材料として、歴史的事例の知識や補助学科が役に立つのである。
ただしこのような比較研究法について注意すべき事は、
類推は推理の形式として不完全であって、推理の飛躍が多い、ということである。
異なった社会、もしくは時代の類似は、部分的であって、完全な一致ではない。
そのために、部分的な観察を普遍化させて、すべてをパラレリズムでもって説明することは危険である。
この種の類推の実例として、ベルンハイムの記載している所を引いてみる。
それは、モルガンがその名著「古代社会」()その他の書において、
ある原始民族の夫婦関係の観察から出発して、
すべての民族が、その文明の向上とともに、必ず夫婦関係の形式の同一な段階を通過し、
その間に、ことに母権の支配する段階が顕著なものであり、
最後に一夫一婦の形式に到達した、
ということを推論した。
この書の推論を基礎として、さらに多くの推論が成立した。
しかし、ウェスターマークの人類婚姻史()の詳細な調査は、
モルガンの研究法と、その普遍的推論の誤謬を証明した()、
というのである。
すべてこの形式の推論は、
若干の具体的実例に基づいて普遍的結論を立てるという行き方であるために、
それに反する具体的実例の指摘によって、くつがえされるものである。
史料の解釈において、類推的推理は大なる示唆を提供する。
しかしこの際、類推法そのものは、
学問上では、ただ仮説を立てるのに用いられる推理の形式、
であることを、忘れてはならない。
(2) 史実の決定
史料は、ある歴史的事象すなわち史実を証拠立てる。
時として、ある一つの史料は、それで十分に、ある史実を証拠立てることがある。
例えば、ある形式の整った条約文の存在は、
それで十分に、その条約が締結した決議事項、を証拠立てるのである。
しかし多くの場合、一史料のみでは一つの史実を決定することは不可能である。
多くの史料を必要とし、時として一つの史実に関する史料が甚だ不十分であって、
発見されているすべての史料を使わなければならないことがしばしばである。
そして多くの史料の証言は、あるいは一致し、あるいは矛盾する。
史料の証拠が一致する場合
(一) 遺物と遺物の一致。
遺物は沈黙しており、それを生かして証拠に使用するのは解釈である。
しかし解釈は主観的要素があり、誤謬におちいりやすい。
そのために遺物の一致にはその数が多いことが要求される。
遺物の一致とはすなわち解釈の一致であり、多くの遺物に対して同一の解釈が成立することを意味する。
きわめて僅少な遺物の一致では、史実は十分に決定され得ない。
(二) 証言と証言との一致。
この一致は、それらがなんら親近関係をもたず、本源性を持っていることが条件である。
親近関係のない証言が多く一致するほど、その力は強くなる。
この際、些細な点の不一致は、決して重要事項の一致を否定することはできない。
しかし可信性の一致は、その本源性について、疑いを入れる余地がある。
(三) 遺物と証言との一致。
ある史料の価値が低く、その証言がそれのみでは疑わしい時、
遺物がそれを確かめて、その史実の存在を肯定することがある。
例えば古代の伝説が、遺物の発見によって信じることができるようになる、といった例である。
またある遺物にいろいろの解釈が下されるが、なおそれらの解釈のどれが正しいか不明である時、
新しく発見された文献的史料によって、その遺物の一つの解釈が確実になることがある。
エジプト学アッシリア学等に多くこの例が見出される。
史料の証拠が矛盾する場合
二つ以上の証拠が一致しないことは、実際の研究において、常に出会うところである。
その場合を原則的に扱うために、二つの史料で言えば、
一方が全く不可能であるか、または可能性のほとんどないことである時、
あるいは史料の可信性において、一方は十分であり、他方は疑わしい時、
その決定は容易である。
しかしいずれも可信性が十分でなく、ただその程度に相違がある時、
可信性・蓋然性を認める程度以上の決定は、なし得ない。
相互の可信性が、同様もしくはそれに近い時は、疑問を残しておくしかない。
実際においては多くの史料があり、さらに事情をも考慮に入れるために、非常に複雑になるが、原則は上と同様である。
このように史実について多くの史料が矛盾している時、
それらの史料から立てられる史実の決定を、簡単な形式に表せば、
一、 肯定
二、 蓋然
三、 未決定
四、 否定
の諸種となるだろう。
史料が相矛盾する場合については、なおいろいろ注意するべき事項がある。
表面上矛盾するように見えて、実は相補足することがある。
たとえば甲は一つのことを証明し、乙は他のことを証明している時、
それは矛盾でなく、共に真実であり得るのである。
史料の矛盾は実は真理が中間にあることを示す場合がある。
例えば戦争において、両方が共に勝利を報告しているが、それはその勝敗が決定的でないことを意味する、
というような場合である。
事件そのものは本来同一であるが、ただ証言者の心理主観の相違によって、別個の形をとっていることがある。
不必要の事項の矛盾は、多くの場合、問題にする必要がないことである。
沈黙の証拠
史料の証拠の一致および矛盾に関係があるのは、いわゆる「沈黙の証拠」なるものである。
これはある史料に当然あるべき事柄がなく、したがってそのことの否定の根拠となるものである。
その点からこれはまた消極的証拠()と呼ばれる。
たとえば北条時頼の廻国の物語がもし事実とすれば、それは当然『東鑑』に載るはずである。
しかしその書物には、それに関するなんらの記載もない。
したがってこれは一つの小説に過ぎない、という類である。
ただし、この「沈黙の証拠」については、次の点を吟味しなくてはならない。
一、 証言者がそれを知っていたか。
古い交通不便の時代には、時として当然知るべきことに無知であったことがあり得る。
二、 証言者が報告するべきことと認めたか。
時代の差異等のために価値批判の相違があることが考えられなければならない。
三、 証言者が報告し得ないことではなかったか。
なんらかの利害関係により、また淳風美俗を害すと考えることにより、
特に沈黙を守っていることがあり得るのである。
先に述べたように、時として虚偽の一種である沈黙がある。
ある国の外交文書の発表において、時としてことさらにある文書を加えない、
というようなことも、またこの種の沈黙である。
上のように、いろいろな場合をよく吟味して、初めて沈黙を証拠となし得るのである。
また時として、ある遺物の存在しないことが、沈黙の証拠となることがある。考古学的研究の場合、この例が多い。
(3) 歴史的関連の構成 (私注:やっぱり、歴史的「連関」を歴史的「関連」にすることにした)
史料の提供する史実は断片的であり、そのままではなお、何の連絡もない素材である。
これを因果関係において連結し、有機的な全体的経過発展の形に構成するのが、
ここにいう歴史的関連の構成であり、総合の作業の中心である。
それは史実の関連の把握によって、過去の史的発展を思想の中に再現するのである。
そして史実を連結させる手段は推理であるが、それは厳密に科学的推理でなければならない。
この推理は、本質的にはもとより、他の科学におけると同じ形式の論理である。
しかし、歴史的推理には、先験的な原理として、
「人間の社会事象の要因」に関する意識が働く。
これはもちろん、すでに史料の批判やその解釈において、推理の要素であったものである。
しかし特に、史実の関係を把握する作業において、指導的なものとなる。
そして、その「人間の社会事象の要因」としては、
@自然的要因、A心理的要因、B文化的要因、が考えられる。
@ 自然的要因の意識とは、「人間に対する自然の制約を理解する」ことである。
A 心理的要因の意識とは、「人間の心理を歴史的生活に働く力として理解する」ことである。
B 文化的要因の意識とは、「人間社会が生産した一切の文化を、歴史を規定する力として理解する」ことである。
この場合、「文化」という言葉は、もちろん広義の意味であり、
精神的文化のみならず、物質的文化の一切を包含する。
唯物史観は、この物質的文化の要因に、もっと正確にいうならば生活物資の生産様式に、
特に支配的地位を与える考え方である。
これらはもとより独立的でなく、相関的有機的に作用するのであるが、
その社会事象に働きかける主要な特色に従って、着眼の便宜のために分類されるのである。
どのような人でも、人間の生活関係に対する理解において、素朴ながら、これに関するある意識を持つ。
この意識を欠くとき、人間の社会事象は全く不可解な現象とならざるを得ない。
これは歴史を認識する基礎であり、歴史的関連の構成には、これが先験的に働いて、
因果関係を立てる基礎をなすのである。
史実の関連を正しく構成するためには
これらの要因に関する理解が、深くかつ妥当であって偏らないこと、
実際の研究において、注意がそれらに十分かつ鋭く行き渡ること、
因果関係の推理が厳密に論理の形式に適合して、欠陥を示さないこと、
が必要なのである。
偉大なる歴史家と称された人物は、単に基礎的作業である批判における技量のみならず、
いずれもこの歴史的関連の構成における眼識が、広くかつ秀でていたのである。
これはもとより、もって生れた頭脳にも関係する。
しかしこれは、社会生活の豊かな体験と、歴史研究のたゆまぬ努力によって、鍛え得るものである。
また、優れた多くの研究をよく玩味して、その鋭い史眼を会得することも大切である。
ランケは、歴史は鑑が物を写すが如く、客観的に考究されなければならない、ということを主張した。
この「歴史は客観的に考究すべし」という態度は、歴史的関連の構成の問題に関係がある。
きわめて厳密にいえば、人間の認識に純客観的なることはあり得ない。
いわんや歴史学のように、価値的意識をその認識の根底とする学問にあっては、
到底、主観的要素を除き得ないのである。
しかしランケの発言は、その内容に正当な主張をもつ。
それは利害関係、好悪の感情等に支配されず、
すべてにまったく公平な態度を取るべきことの、素朴な表現である。
歴史学の研究者の、常にもつべき反省をさすのである。
歴史学の対象は人間的事象であり、
したがって自然を対象とする自然科学の場合と異なり、
その取り扱う個人、団体、時代等に、好悪の感情を持つことを免れない。
さらにまた、歴史家は、現実の政治的経済的思想的生活において実際的関心があり、
それが意識的に無意識的に研究の中に入り込む危険があるのである。
客観的とは、このような傾向を脱して、冷静に歴史的対象を取り扱うことである。
そしていわゆる主観的傾向の最も入り込む機会は、
歴史的関連の構成の際においてであり、
客観的にという標語は、この場合に最も意義をもつものである。
いわゆる客観的であるためには、すべてに対して共感()をもつことが要求される。
共感とは、できる限り、個人、団体、時代等のすべての立場を理解し、
よくその中の人間性を認めることである。
現実的関心において、反対の立場にあるものに対しても、
歴史的関連の構成においては、実生活的関係の要素が入ることを、防がねばならない。
ドイツ人であり、新教徒であってローマ教会のドグマを信じなかったランケの
ローマ法王史における態度のようなものがその好例である。
一つの歴史的関連の構成が、いままで誰にもなされなかった題目について行われる時、
それはその研究者の学的業績となる。
なんらかの新しい史料が発見されれば、
それは当然新しい証拠を提供し、
ある問題について従来承認されていた考え方、すなわちある歴史的関連が覆され、
そこに新しい関連が構成されることとなる。
すなわち新史料の発見は、研究者に新しい仕事を提出する。
もしまた新しい史料の発見がなくとも、研究者にとっては、
従来の考え方を覆して独自の見解を立てる余地がある。
それは史料の使用の範囲において、従来のものが、必ずしも完全でないからである。
(4) 歴史的意義の把握
それぞれの歴史的事象は、有機的な大なる発展の中の一部である。
その一部が全体の発展に対していかなる地位を占めるか、
すなわち全体の因果的関係においていかなる要素であるかを考察することが歴史的意義の把握である。
これについてエドアルト・マイヤーの論じている中の最も適切な一節を引こう。
*****
すべての歴史において、その影響を及ぼした範囲から見て、アウグスッスのような人格はない。
カエサルは非常に著しくより優れた人物だった。
しかし彼の歴史的影響は、彼の養子に比べてなお、ただ一時的なものだった。
世界がアウグスッスに服従した時、数世紀を通じる古代世界のその後の発展は、
ローマ帝国の将来の領域設定に関する彼の決意に基づくことになったが、
そればかりでなく、その決意の直接の結果から、いまもなおドイツが存在したり、
ローマ風民族とともにゲルマン風民族が存在したりするのである。
なぜならば、この国家領域設定によって、
ゲルマン族の永久的服従に必要であったほどの規模の征服戦争が、
不可能になったからである。
もとよりアウグスッスの決意は当時の形勢に影響されているが、
しかしそれはその核心において、彼の人格の発露であった。
カエサルなら同様の形勢においても、まったく異なった決意をしたであろう。
アウグスッスは、カエサルが国家に与えようと欲した領域を、
彼自身の自由意志から拒絶したのである()。
*****
人物としてはカエサルの偉大さにとても及ばないアウグスッスが、
歴史的意義においては、無比の地位を占める理由を論じたのである。
それぞれの研究題目について、その歴史的意義を把握することは、
歴史の研究の最後の考察であるべきである。
もっとも実際の研究においては、ある題目について研究の要求を起こす動機は、
意識的にもしくは無意識的にそれに関する歴史的意義の直感的把握であろう。
P87「歴史は過去に対する現代の関心である。」(「」私)
その関心が、いずれの分野、いずれの題目に向けられるかは、
各人において異なり、千差万別というべきである。
しかし各研究者にとって、ある題目に関心を向けるに至った基礎には、
それに関するある程度の歴史的意義の認識があるべきである。
それゆえに、歴史的意義の把握は、歴史研究の要求の出発点である。
しかしある歴史的事象の歴史的意義を真によく把握することは、
もとよりその事象、その題目に関する精細な認識を得た後、
それを十分に歴史の全発展の中にはめ込んで考察して、ようやく可能である。
したがってこれを総合の最後の作業とすべきである。
「歴史という語を、抽象的にただ過去の経過と見て、まったく客観的な存在の意味と理解すれば、
それはもとより固定した不変なものである。」(「」私)
しかしそれは人間の意識する歴史そのものでなく、
永遠に忘却の中に没し去って、人間の思想と交渉のないものである。
これとは逆に、
「歴史という語を、人間の意識する過去、という意味と理解すれば、
それは決して固定的なものではない。
歴史はいわゆる現代性を持ち、現代の姿に従って、意識する歴史が異なるのである。
その意識する歴史が異なる所以は、
すなわち過去の歴史事象に対する歴史的意義の把握が、変化するからである。」(私「」)
過去に対する歴史的意義は、人間の生活の発展の、現代の段階によって決定される。
蒸気機関が非常な発達をするにいたって、
ひるがえってその発明に人類の運命を支配したものとしての意義が付せられる。
また、ヨーロッパの宗教的分離が、社会万端のことに甚大な影響を持つに至って、
さかのぼってルターの95条のテーゼの歴史的意義に重要さが付せられるのである。
これに反し、その当時最も社会の耳目を恐れ動かした表面的な事件は、
その直接の社会においては、大きな歴史的意義が付せられるのであるが、
時代が進むに従って、その後世への影響が僅少である時、
その歴史的意義は僅少となる。
一つの時代には、常にその時代の持つ歴史的意義の把握があり、
従って人間の意識する歴史は、時代の進みとともに変化する。
新しい時代の形態の展開が、過去を見る角度を変えていくのである。
もとより、人間の社会の形態が本質的に変化することはないのであるが、
歴史の新しい展開が、過去に対する新しい意識をつくるであろう、
ということは動かせない。
すなわち歴史が歴史をつくるのである。
かくてエドアルト・マイヤーの、歴史研究は遡行し、歴史記述は下行す、という文句が生まれるのである。
そしてこの点から、歴史研究には現代の立場から、
常に新しい歴史的意義の把握が試みられ、新しい問題が提供されるのである。
とにかく歴史の研究において、
新しい歴史の意識の形態を規定するものは歴史的意義の把握であり、
それは歴史研究の出発点であり、また到着点である。
すなわち歴史的意義の把握は、直感的に歴史研究に先行し、実証的にその帰結となるのである。
(総合、おわり)
(上記の文は、後に続く方法論の本を見ると、かなりの影響が見られる。
しかし、これまでのところ、それらの本を元にして交わされた議論で強調されたのは
「歴史意識の現代性」であり、「歴史認識の主観性」である。
「客観的な存在は不変」という部分は、軽視されがちである。)