現代文・今井『歴研法』6、(その1)

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6、方法的作業の一例
    ―――天文年間塩尻峠の合戦―――

 以上に略述したところは非常に抽象的であるから、それをさらに実例に適用して、
それによって一つ一つの場合を例示してみよう。
この際、引例として適切であるためには、単純明瞭に公式にあてはまるようなものであることが必要である。
その点から、最も初歩的なものを選択することになるのは止むを得ない。

題目

 天文17年(1548年)7月19日、武田信玄が小笠原長時を信州(長野県)塩尻峠に撃破した戦を題目とする。
この戦は史実としてはすでに確定して色々な書物に載せられているが、
これを考証してみる時、それが種々の点で非常に公式的に上述の諸項に該当することを発見するのである。

史料

 この戦に関する文献的史料の中で、方法的に材料となるのは次の種類である。

(1) 古文書(武田信玄が出した感状)
(2) 諏訪神使御頭之日記
(3) 妙法寺記
(4) 溝口家記
(5) 二木家記(壽斎記)
(6) 岩岡家記
(7) 小平物語
(8) 甲陽軍鑑

  (私注:史料の種類:
      (1)武田の家臣がもらった武田信玄の感状、(2)武田寄りの諏訪神社の記録、(3)甲斐の寺の記録、
      (4)(5)(6)小笠原氏復興の時に、小笠原氏の家臣が提出した、父祖または自分の経験を書いたもの3種、
      (7)百数十年後に、信州伊那の82歳の人によって書かれた、この戦に触れた本、
      (8)江戸時代に流通した甲州流軍学書。)


 その他、この戦を載せている時代の下る記録は多数ある。
しかしそれらは、余りにも明瞭に『甲陽軍鑑』の影響を受けた、つけ足し的なものである。
後に多少関連説明することもあるが、特に記載するほどのことはない。

 なお、この合戦に関する「口碑」も、若干この地方に伝わっているが、
要するにこの峠に戦いがあったことを言い伝えているに過ぎない。
したがって、史料として見るほどのものではない。

 一方、この峠を中心とする「地理」が、重要な史料となして着眼するべきであることは勿論である。

 その内容を批判する上で必要なので、これらの史料をいま具体的に記してみる。

  (私注:入力の便宜上、いささか不都合ながら、常用漢字になっている部分もあるが、ご容赦願う。)

  (私注:史料の表記について


(1)古文書・武田信玄が出した感状
******
 今十九
卯刻(うのこく)(において)信州塚魔郡塩尻峠一戦之(みぎり)、頸壱討捕條、神妙之至(そうろう)
 
(いよいよ)可抽忠信(ちゅうしん)肝要(かんよう)(そうろう)仍如件(よってくだんのごとし)
 天文十七戊申
   七月十九日       晴信(朱印)
                  波間右近進との
******


            (私注:この感状の意味は、大体、以下のようなものである。

              「天文17年(1548年)7月19日の信州塩尻峠の一戦で、頸を一つ討ち取ったこと、神妙である。
               いよいよ忠信が肝要である。以上。晴信(武田信玄)。」)    

             (私注:

 そして、甲州文書の中に、右と全く同一文句のものがあり、
宛名が土橋惣右衛門尉どの、となっている(持主、遠光寺村、土橋文六)。
さらに筆者の見た書物にこれと同一文句の古文書が収められているものが二通ある。

 一つは、木曽考に載っている、信玄父子義昌朱印書札という中の、
大村與右衛門という人物に宛てた、信玄の感状三通の中の一通である。
これは原文書は今残っているかどうか知らないが、この書を編纂した時はあった、確かなものであることは疑いない。

 他の一つは、武田三代軍記・巻之七・塩尻峠合戦之事の条に載っている小山田平治左衛門なるものにあてたものである。
この書物は全く信用できないものであるが、この古文書だけは上の三通と同じもので、
その類のものがあったと思われる。
ただし、この方は朱印でなく花押になっているが、この書物の性質上、そこまでは信用できない。

 
(2)諏訪神使御頭之日記

     (私注:長野県諏訪大社の御柱祭は、その起源は平安時代以前と言われる古い祭りで、7年に一度行われる。
      テレビ中継で、斜面をすべり落ちる大木に乗る男たちを、見たことがある方も、多いのではないだろうか。

      諏訪大社の外宮にまで討ち入った小笠原氏の動きは、この祭りの進行に影響したため、神官の記録に残されることになった。)


天文17年の条に次の記事がある(注は今井)
******
一、 四月五日ニ、村上・小笠原・仁科・藤沢同心ニ当方ヘ外宮まで討入、たいら()放火(そうろう)て、則帰陣候。
然間(しかるあいだ)、御柱、十五日ニ甲州ヨリ、無相違(そういなく)被為曳候。
神長
禰宜(ねぎ)其外(そのほか)社家衆、田部籠屋ヨリ帰村(つかまつり)候。

一、 六月十日に小笠原殿外宮まで打入、外宮地下人
(ばかり)出相、馬廻下侍十七騎、雑兵百騎討取候。
小笠原殿、二箇所手おはれ候。宮移之御罰と風聞候。
其上、村上・仁科・小笠原、御柱宮移ニさはられ候間、末々も
可有(あるべく)神罰候。

一、 此年七月十日ニ、西之一族衆
(ならびに)矢島・花岡甲州え逆心故、諏訪乱入候。
神長千野殿、従河西上原え移り候。
同十九日に西方破、
(ことごとく)放火候て、其日 武田殿小笠原殿(において)勝○(注:1字不明)一戦候て、
武田殿打勝、小笠原衆上兵共ニ、千余人討死候。


(私注:以下、大体の意味。後の本文と重なるが理解のために並記する。

1、4月5日、村上・小笠原・仁科・藤沢の諸豪族が同盟して、
信玄の支配地である当方諏訪神社の外宮まで討ち入り、放火し、帰った。
しかしながら、御柱は、4月15日に甲州方で、決まりどうりに曳いてすました。

1、6月10日、小笠原殿が外宮まで討ち入り、外宮では地下人(人民)ばかりが出て相手をし、
馬廻り・下侍など17騎、雑兵百騎を討ち取った。
小笠原殿は二ヶ所ケガをした。宮移の邪魔をした罰が当たったのだと風聞が立った。後々まで神罰あるべし。

  1、この年7月10日、西の一族衆や矢島・花岡の諸氏が、武田に対して逆心し、諏訪に乱入した。
同19日に、西方(反乱者側)が悉く破れ、放火された。(私注:原文と意味が逆)
その日、信玄が小笠原長時を勝○に撃破し、小笠原衆が千余人、戦死した。
*******
 *「勝○」というのは、塩尻峠の南方の「勝弦」という所ではないかと言われる。)


(3)妙法寺記

 天文17年の条に次の記事がある。(文政9年の版本による)

*****
 此年七月十五日、信州塩尻嶺ニ、小笠原殿五千
(ばかり)ニ而(にて)御陣被成(なされ)候ヲ、
甲州人数、
朝懸(あさがけ)被成(なされ)(そうろう)()(ことごとく)、小笠原殿人数ヲ打殺シ、被食(くわれ)候。
*****


  ( 私注:山梨県南都留郡木立妙法寺の主僧が代々書き継いだ年代記)


(4)溝口家記

  これに載っている小笠原長時の伝記の記事(以下の4書、信濃史料叢書所収による)

三十一之年、(において)諏訪峠、武田晴信、法名信玄と打向合戦刻、
西牧四郎左衛門、与洗馬之三村駿河守同心に、其勢千四五百、企逆心、
於後之峠、鯨波を咄と上る。
無據(よんどころなき)付而(つきて)、両人之方に被馳向(はせむかわれ)
両所の勢傍え引退、
不及是非(ぜひにおよばず)、塩尻長井坂を御退候。
後より慕、長時帰合、
不知数(かずしれず)打捨に被成(なされ)候。適大将之由、後々申伝候。

 また同書に、長時は天正11年に65歳で逝去した事が載っているから、
それから逆算すると、長時31の年は、天文18年のことになる。

(5)二木家記(または壽斎記

 この記事は非常に長いが、この種のものの性質を示すことと、
次の小平物語との親近性を証明するために、全体を掲げる。(注は今井)

******
 長時公、家老衆を召て
被仰(おおせられ)候は、下の諏訪に武田晴信より城代を被置(おかれ)候事、
信濃侍の
瑕瑾(かきん)被仰(おおせられ)候て、諏訪の城代追払可申(もうすべく)被仰(おおせられ)

則両軍の侍、仁科道外、洗馬の三村入道、山邊、西牧殿、青柳、苅屋原、赤澤、島立殿、犬甘殿、平瀬殿、
其外長時公御旗本衆、神田の将監、標葉、下枝、草間、桐原、瀬黒、何もさうしや、村井、塩尻衆、征矢野、大池各也。
二木豊後、舎弟土佐、三男六郎右衛門、兄弟三人也。豊後子萬太郎、土佐子萬五郎弟源五郎と申候。

長時公近習仕、林に住所、御旗本に
罷在(まかりあり)候。
二木豊後、同土佐、同六郎衛門、同萬太郎是は壽最事也、同萬五郎五人は西牧殿備と一所に罷立候。

惣軍勢、林を立て下の諏訪へ取掛、晴信公より被置城代を、手きつく責申候、四月中旬なり。
強く責申候故、長時公へ城相渡可申候間、御馬を少御退可被下由申候に付て、城を受取
可申(もうすべき)(ところ)に、

仁科道外望
被申(もうされ)候は、下の諏訪被下(くだされ)候へ、左候はば甲斐の国迄の先掛を(つかまつる)
晴信と一合戦
(つかまつり)候はんと望申候(ところ)に、

長時公
被仰(おおせられ)候は、我等縁(注:「稼」の誤り)のさきを望事、推参(すいさん)なり、と被仰に付て、
仁科道外ほね折ても詮なしと
被申(もうされ)、晴信朱印有とて、軍前をはづし、備を仁科へ引取申候。就其城渡不申(もうさず)候。

然處(しかるところに)に晴信後詰のために上の諏訪へ御着候。

(おのおの)
申候は、諏訪を道外に出す間敷と長時公被仰(おおせられ)候は、御一代の可為御分別違と申候。

長時公は其日は諏訪の内四ツ屋と申
(ところ)へ御馬をあげられ候。夜明候て諏訪峠に御陣御取被成(なされ)候。

其日の四ツに軍はじまり申候。初合戦に晴信先手を切崩し、四ツ屋迄敵下し、首百五十長時の方へ取申候。
其日の内に六度の軍に、五度は長時公の勝に候。

晴信には旗もとこたへ候付、六度目の合戦に、洗馬・山邊、敗軍仕候に付、長時旗本にて懸つ返しつ軍御座候、
御旗本衆能者共、皆討死仕候故、長時公も
漸々(ようよう)林の城へ御引取被成(なされ)候。

晴信公泉迄御働、泉に陣を御取被成、林への手遣被成候處に、村上殿小室へ働被申候
(よし)御聞、早々引被申(もうされ)候。
其時長時公の衆、能者共、皆討死仕候。

洗馬逆心に付、西牧の衆、二木一門の者、本道を
退(しりぞく)不罷成(まかりならず)候て、
櫻澤へかかり奈良井へ出、奈良井孫右衛門所にて、飯米合力に(注:「を」の誤り)請、
御たけ越をして
漸々(ようよう)西牧へ出申候。
*******

壽斎はこの戦の時を何年とは記していないが、
斎すなわち上の文中に出る二木萬太郎の「拙者16」という年の所の記事であり、
そしてその前に伊那に出陣した所の記事に
「其時壽最(注:壽斎)を萬太郎と申し候、年15歳の時也、生年は庚寅の年にて候、
始て具足を着し御供仕候、天文13年甲辰の年也」
と記しているから、この戦は明らかにその翌年、天文14年を意味していることがわかるのである。


(6)岩岡家記
 この記事は極めて簡単なものである。

天文巳五月、長時公、信玄公と御取合之時、於諏訪峠、岩岡石見、討死仕候。是は拙者祖父にて御座候。


(7)小平物語

******
天文十四乙巳歳、長時公老臣各を召て宣ふは、

一両年
已来(いらい)、武田晴信、上の諏訪の城に、舎弟天厩(てんきゅう)差置、下諏訪には、家老の板垣信方を置事、無念の至りなり。
諏訪の城代を踏倒し、其時、晴信後詰において、有無の勝負と
被仰渡(おおせわたされ)

仁科、洗馬、三村、山部、青柳主計、西巻、犬飼、赤澤、島立、平瀬、各の衆、大身旗頭なり。

その外旗本、神田将監、泉石見、栗柴、宗社、草間、桐原、村井、塩尻、大池、二木豊後、同土佐、草間源五郎(割注:肥前養子)、
二木弥右衛門(割注:豊後実子壽斎事)、丸山筑前守、此外、木曽同勢にて、雑兵共に八千余騎の着到を以、

塩尻を打越、諏訪近に陣を取、板垣が城を攻給ふ。

すでに本城ばかりになり、危き處に、又晴信後詰として、上諏訪迄御出にて、

御先衆は甘利備前、両角豊後、原、栗原、穴山、小山田、御旗本にて日向大和守、小宮山、菅沼、今井伊勢守、長坂、逸見、南部、
都合九千余騎の軍兵を以て、小笠原へ御向被成也。

長時公其日、四ツ谷といふ處、御馬被上、夜明て諏訪嶽に陣を取、同巳刻に軍始也。

晴信公の先手甘利、両角、原加賀守、栗原、穴山、小山田が兵崩て、味方、手負死人、大勢有之處、
天厩一体を以て、諏訪勢、相支ふるなり。

長時公方の洗馬丸山を追返し、敵百五十八の首を取るなり。此時、強き働を、諏訪衆仕る。
 
一日に六度の戦続て、不切手に合候んは澤、茅野、高木、高梨、三澤、小平、両角なり。
此両角は、両度迄、一番
(やり)を入るなり。

六度目の戦に、長時公の御内征矢野といふ大切の侍と、両角と馬上にて鑓を突合、互に柄を取て引合に、
両方共に、其頃聞え有、武功由緒有、近付なば、是非勝負を眼前にて迫合處に、

長時公の内にて、洗馬、三村入道、山部逆心して、晴信方へ首六百取り、
(また)仁科道外も逆心仕り、武田方に成となん
******



(8)甲陽軍鑑

 この本は、「偽書」であることが証明されている、が、他の史料との関係から、該当する記事を全部あげる。
(東京大学図書館蔵の同書中の最初の版本、明暦2年・1656年・京都二条玉屋町村上平楽寺開板による。注は今井)

******
同月(注:天文14年5月)十九日午の刻に、諏訪高島の城代板垣信形、飛脚を以て申上る。

塩尻へ、小笠原打ち出で到下(注:峠)をこしてこなたへ働き申す。又、伊奈衆も働き申候由、

晴信公聞召、時日をうつさず、即午の刻にこむろを打出給ひ、諏訪へ御馬をむけられ、いな衆をば、板垣信形、うけ取向ふ。

小笠原木曽の両敵には、晴信公向ひ給ひ、御さきは甘利備前、諸角豊後、原加賀守、
右は栗原左衛門、穴山伊豆守、左は郡内の小山田左兵衛、天厩様、御旗本後備は日向大和、小宮山丹後、かつ沼殿、
今井伊勢守、長坂左衛門、逸見殿、南部殿、都合七頭後備、

五月二十三日辰刻に、小笠原、塩尻到下を下て、木曽どのを筒勢(注:同勢)にして、到下に備を立てさせかかりて、軍を始むる。

小笠原兼々分別には度々晴信にあふて勝利を失ひ、如此に候はば、小笠原滅亡と存ぜられ、
有無の合戦と、きはめ出られたしるしに、とき衆(注:さき衆の誤りか)三頭と暫く戦有。

其間に右備衆二頭にて到下を心懸、後ろへまはし、木曽殿備にかからんとするを見て、小笠原衆敗軍して勝利を失ふ。

小笠原木曽の両敵衆を晴信方へ討取、其数雑兵共に六百二十九の頸帳をもって、同日未の刻に勝時を執行給ふ。

天文十四年五月二十三日巳の刻に、木曽小笠原両旗にて、小笠原方よりしかも懸て軍をはじめ、
晴信公は待合合戦にて勝利を得給ふ。信州塩尻峠合戦と申は是也。晴信公二十五歳の御時なり。


*******