現代文・今井『歴研法』6の2
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真偽の検討
以上のうち、「古文書」(感状)は、現に疑いを入れられない実物が存在している。
書物に収められたもののうち、武田三代軍記に載るものはそれだけでは信用されないが、
先に述べた他の史料と比較する方法で、こういう書物にでも、
はっきり古文書の形で載っているものは、すこぶる実物を反映していることが知られる。
次の「神使御頭之日記」は確かな原本が存在していて問題にならない。
「妙法寺記」の真実性も疑う余地がない。
「溝口」・「二木」・「岩岡」の三家記および「小平物語」は
いずれも著者自筆のものはすでにないらしいが、書物そのものは偽書でないことは、
内容の上から、またその発生の上から見て取れる。
これに反し、「甲陽軍鑑」は高坂弾正昌信著となっているが、
これについては史学雑誌等に多くの考証があり、「偽書」であることが明らかにされているので、
ここでいろいろ言う必要はない。
しかしながら、徳川時代には、この書を元にした小説的な歴史読み物が、非常にたくさん出た。
のみならず、続本朝通鑑、列祖成蹟、逸史、日本外史、日本野史等、いずれもこれに拠ったので、
史学史的に、非常に重要なものになった。
本書は実に、わが国の偽書中の、最も著名、かつ、最も注意すべきものの一つと言えるだろう。
次に混入・脱落・変形等については、「古文書」(感状)および「神使御頭之日記」には問題はない。
「妙法寺記」は文政9年の版本によったが、
東京大学図書館蔵の天保8年の日付のある長澤衛門なる人の写本「妙法寺旧記」には
「信州塩尻嶺ニ小笠原殿三千斗に而」となっていて、ここだけ前掲の方の五千と違っている。
版本はすべて五千となっているが、なお他の写本によって校合の必要があるだろう。
「溝口」・「二木」・「岩岡」三家記の信濃史料叢書に収められたものは、
小笠原伯爵家所蔵の笠系大成の付録になっているもので、
そのうち「二木家記」(壽斎記)は史籍集覧中に収録されており、
またこの三書とも明治35年出版の松本六萬石史料(上)という本に収められている。
いま壽斎記について見れば、集覧本の底本は上の大成本よりも悪いらしく、誤字が多くまた脱落がある。
たとえば上に引いた終わりの方に
「長時公も漸々林の城へ御引取被成候。晴信公泉迄御働、泉に陣を御取被成、
林への手遣被成候處に、村上殿小室へ働被申候由御聞」
云々のところで、線を引いた部分だけ脱落し、まったく意味がわからなくなっている。
またその次の「二木一門の者、本道を退事不罷成候て、櫻澤へかかり奈良井へ出、
奈良井孫右衛門所にて、飯米合力に請」の「櫻澤」を「梅津」、「奈良井孫右衛門」を「奈井源右衛門」としている。
「櫻澤」「奈良井」の方が正しいことは勿論である。
六萬石史料に載るものは、さらに大いに原形から遠くなっている形跡がある。
たとえば著者が「拙者十六の正月末也」というところを「時に天文乙巳正月の末なり」とすべて年号に改めてあり、
その他この類のことが多い。
しかし大成本にもすでに若干誤りがあるようである。
たとえば始めのほうの長時の家臣を並べたところに「何もさうしや」と変な文句があるが、
これは集覧本にただ「サウシヤ」となっているのが正しく、
すなわち「宗社」で、松本の東にある「総社」から出た姓であることは明らかである。
また中ほどの「長時公被仰候は、我等縁のさきを望事推参なり」となってこれでは意味不明であるが、
集覧本には「稼ノハナヲ望事」とあるのが古い形であろう。
また「洗馬・山邊、敗軍仕候に付」は、集覧本には「洗馬・山邊、逆心仕」となっている。
これはすぐ下の記事から見て、この方が正しいであろう。両者を比較すれば原形に近づくことができる。
「溝口家記」も、大成本に比べれば、六萬石史料に載るものは崩れている。
たとえば引用した始めの「三十一之年」を後者では「長時、年三十一、天文十八己酉年」となって、
注の混入した形がある。
要するに3家記は笠系大成本が大体原形に近いものと思われる。
「小平物語」の信濃史料叢書に載るものは蕗原拾葉本であるが、
これは後に述べるように、上に引用した箇所は、なんの証拠力もなく、異本との校合の必要がない。
最後に、「甲陽軍鑑」は早く版本となったので、大体原形を伝えていると思われるのである。
発生の検討
古文書は一見して明瞭である。
「諏訪神使御頭之日記」は、諏訪神社上社の神官、いわゆる五官の一つである守矢家の記録である。
享禄元年より天文23年に至る27年間についての、上社の祭礼の当番になった郷名を記してある記録である。
その間に細字でもってこれに関係のある要件の他、各年に起こった大事件を記入してあるものである。
すなわち一種の年代記で、同時代の記録と言うべきものである。
もとより年代記であるから、多少追記的であろう。
ことに御頭の日記は、多く「此年」と書き出してあるが、これは追記的である証拠であると思われる。
「妙法寺記」は甲斐国(山梨県)南都留郡木立妙法寺の主僧が代々書き継いだ年代記で、
文正元年(1466)から永禄4年(1561)までの96年間にわたり、
極めて素朴に毎年の豊凶治乱等の大事件を略述している。
甲斐国誌に引いている勝山記はこの一異本である。
筆者が親しく見聞したところの書き留めで、その点、前書と類似し、ひとしく同時代の記録である。
次に「溝口家記」「壽斎記」「岩岡家記」は、ほぼ同性質のものである。すなわち「溝口家記」の終わりに、
慶長十三戊申7月吉日 溝口美作守貞康(花押)
謹上 主水助殿
とあり、また壽斎記の終わりに、
兵部大輔
慶長十六年辛亥十一月吉日
二木豊後入道壽最
小笠原主水殿
とあるのを見れば、当時諸臣が小笠原家の故事を記述して家老に提出したものであることがわかる。
確かに、小笠原氏は天正十八年、家康の関東入国にしたがって下総に移った。
しかし、関が原の後、秀政が慶長6年(1601年)、飯田(長野県)の城主となり、また故国に帰った。
この時代、一度長く没落してようやく復興した小笠原氏の歴史および臣下の功績について、
諸臣に書き出させたと、判断される。
これらはいずれも主家の興亡を述べるとともに、自分の家の功績を巧みに宣伝しているのである。
すなわち、「溝口家記」は小笠原氏の始祖以来、歴代の小伝を述べ、
長時の条が最も詳しく、その間、筆者溝口直康の祖先以来の忠節を述べており、
「壽斎記」は長時の時以来、生き残りの臣、二木壽斎が
記憶によって長時の没落および
その間彼自身のほかに、父、叔父、その他一族のことを多く記載している。
そして彼が天文13年を15歳としているところから計算すれば、この書を提出した慶長十六年は、82歳に達したわけである。
「岩岡家記」は岩岡織部なる者の記述で、小笠原貞慶の復興の事情を記す。
終わりに、前の2書のような献上の文言が欠けているが、「あらまし如此候」とあって、
同性質のものであることを暗示している。
筆者は塩尻峠で岩岡石見という者が戦死したことを述べ、
「是は拙者祖父にて御座候」と説明しており、前2書とほぼ同時代のものと思われる。
そして小笠原家の家譜を本伝とし、付録としてこれらの家記その他の記録を収めた笠系大成は、
その序文に豊前小倉の城主小笠原候の家臣溝口正則・二木重時が京都で元禄10年(1697)に編集を始め、
宝永元年(1704)に完成したと記している。つまりこれらの家記ができた約100年後であり、
その間に若干の変形が考えられるのである。
「小平物語」は伊那郡の人、小平向右衛門正清なる人物が、
祖父信正入道道三、父信諸入道円帰に関する話を父円帰から聞いていたのを、
貞享3年(1686)82歳の時、伊那の漆戸郷で書きつけたと記してある記録である。
そして上に引いたのは蕗原拾集本であるが、
これは高遠の儒者中村元恒の収集した古書の叢書であり、貞享より百数十年以後に成ったのである。
「甲陽軍鑑」については先人の考証があり、ここに挙げる必要はないであろう。
(私注:「発生」も書いてあるが、「来歴」も書いてある。
しかし「作成時の周辺事情」という意味で「発生」に重心があるだろう。)
本源性の検討
各「古文書」および「神使御頭之日記」「妙法寺記」が全く独立的で本源性を持っていることは、なんら疑いを入れられない。
「溝口家記」も上に引用した文句において、他と親近関係を持たないと断定できる。
それなのに、「壽斎記」、「岩岡家記」、「小平物語」および「甲陽軍鑑」は、
発生からは全く予想されないにもかかわらず、内容的にすこぶる従属性があることが認められる。
小平物語の上掲の文は、先にすでに指摘したように、壽斎記と甲陽軍鑑から大いに借用している。たとえば
壽斎記
「長時公、家老衆を召て被仰候は、下の諏訪に武田晴信より城代を被置候事、
信濃侍の瑕瑾と被仰候て、諏訪の城代追払可申被仰、則両軍の侍、仁科道外」
より以下、武士の名前の並べ方、
「長時公は其日は諏訪の内四ツ屋と申處へ御馬をあげられ候。
夜明候て諏訪峠に御陣御取被成候。其日の四ツに軍はじまり申候。」
小平物語
「天文十四乙巳歳、長時公老臣各を召て宣ふは、一両年已来、武田晴信上の諏訪の城に舎弟天厩差置、
下諏訪には家老の板垣信方を置事、無念の至りなり。
諏訪の城代を踏倒し、其時晴信後詰において有無の勝負と被仰渡、仁科」
以下の武士の名前の並べ方、
「長時公其日、四ツ谷といふ處御馬被上、夜明て諏訪嶽に陣を取、同巳刻に軍始也。」
この両方の表現の様式の一致は、その親近のまったく明瞭な証拠である。
甲陽軍鑑の
「御さきは甘利備前、諸角豊後、原加賀守、右は栗原左衛門、穴山伊豆守、左は郡内の小山田左兵衛、
天厩様、御旗本後備は日向大和、小宮山丹後、かつ沼殿、今井伊勢守、長坂左衛門、逸見殿、南部殿」と、
小平物語の
「御先衆は甘利備前、両角豊後、原、栗原、穴山、小山田、御旗本にて日向大和守、小宮山、菅沼、今井伊勢守、長坂、逸見、南部」
の間の親近は疑う余地がない。
製作年代から言って、小平物語は壽斎記および甲陽軍鑑よりさらに新しいのであるから、
前者が後者の焼き直しであることは明瞭である。
内容的に言っても、そのことは論証される。すなわち、
壽斎記の
「二木豊後、舎弟土佐、三男六郎右衛門、兄弟三人也。豊後子萬太郎、土佐子萬五郎弟源五郎兄弟也。
此源五郎は土佐二番目の子にて候。兄は草間肥前が養子に罷成りて、草間源五郎と申候。」から
小平物語の
「二木豊後、同土佐、草間源五郎(割注:肥前養子)、二木弥右衛門(割注:豊後実子壽斎事)
(今井注:壽斎記に壽斎長じて弥右衛門と改名する記事がある)
が出ていることがわかる。
壽斎記が自分の一族を特に詳記するのはうなずける。
しかし小平物語が、ほかは大部分ただ姓のみであるのに反し、二木の一家を例外的に名を挙げているのは
言うまでもなく借用だからである。
すなわち、一方において妥当な性質を、他方がただ盲目的に踏襲した形跡がある時、
よくその借用を物語るという原則の、すこぶる適切な一例である。
その他さらに子細に見れば、小平物語の上の記事が、
他の両所から借用している点がいかに多いかを、よく見て取ることができるのである。
そのことは小平物語自身が若干物語っている。
すなわち上の文の最後のところに「是は我等小笠原古信濃殿御家中にて聞及也」と書いてあるのである。
次に岩岡家記の「天文巳五月、長時公、信玄公と御取合之時」(私注:原書では晴信公となっていて、前掲の引用史料文と違っている)
の「巳五月」は14年5月であり、
甲陽軍鑑の「天文十四年乙巳五月二十三日」と親近があるだろう。
それは後に述べるように、この戦は十四年五月ではなかったのであるから、
このように誤りの一致することは、従属性がある証拠となるのである。
この場合この書の最初から上に掲げた文句があったか、
それが笠系大成編集の時までの混入であるか、
それとも「巳五月」のみが変形であるかの疑問が起きる。
それについてはこの文がこの筆者の祖父の戦死を伝えている箇所であり、
主君に対して最も宣伝的効果のあるところであるから、
やはり最初からの形であると見るのが合理的であろう。ただし、「巳五月」だけの混入も考えられる。
上述のようにこの書「岩岡家記」の一写本が六萬石史料に載っているが、
それには不思議にもこの「天文巳五月」が「天文十八年酉五月」となっている。
これは明らかに混入である。
すなわち先に例を挙げたように、年号を入れたことが注釈的であるほか、
五月がついていることによってわかる。
十四年五月なら甲陽軍鑑の親近として必然性がある。十八年五月は意味をなさない。
これは思うに、溝口家記がこの戦を十八年にしているのに合わせて、
「巳五月」を十八年五月と修正したのである。
この点からいえば「巳五月」とあるのが、その部分だけ古く混入する可能性もあり得るのである。
とにかくそれが最初からにせよ、後の混入にせよ、
岩岡家記の天文十四年五月は甲陽軍鑑の記事と親近関係にあることを認めうるのである。
ただし、この場合の親近関係は、史実の確定後に初めて推定されることである。
それまでは証言の一致する場合、ということにしかならない。
ここでその親近を決定するのは順序転倒であるが、後の手続きを、便宜上ここでまとめたのである。
最後に壽斎記と甲陽軍鑑との間に親近関係は存在しないか。
これについて両者がこの戦をともに天文十四年としていることは、
前の場合と同じくこれだけでは証言の一致であり、
史実が決定するまで、その従属性を決定する根拠とはならない。
それなのにこのほかにも若干の親近を示唆するものが指摘されるのである。
1・2の例を言えば、甲陽軍鑑の長時没落の条に、
「小笠原長時いづ方にても他所において少の所領につき、武田の家に堪忍と信玄公被仰出候へ共、
長時申さるるは、元来武田小笠原兄弟の事、武田は兄なれ共甲州に居る、小笠原は弟なれ共都につめ、公方様御下に近く罷在候間、
武田より万事手うへなりつると申来り、長時が代になり武田の被官になる事中々に及ばず候とて、上方へ牢人なり。」
とあるに対し、壽斎記にも同じく長時亡命の前の事として
「晴信公より小笠原憩庵を以て、武田の旗下に御随身候者、一門之儀に候間、御如在被成間敷由被仰遣候。
御屋形被仰候は、昔より武田小笠原とて兄弟たりといへども、在京して宮仕奉り、武田より上手の小笠原、
只今長時が代に武田の被官になる事思ひもよらずと返答被仰遣候。
同年十二月晦日大歳の夜、忍びて中洞を御出被成候。」
と記しており、非常に類似した記事がある。
もっとも甲陽軍鑑では、長時は天文22年に深志を落ちて上方へ亡命するので、その時のこととなっており、
壽斎記では天文21年晦日に二木氏の山城中洞(または中東とも書く)を落ちて越後へ逃亡するので、
その時のこととなっていて、完全には一致しない。
しかし上のような一致は、両者が直接の親近がある場合か、
ないしは間接の親近すなわちこの文字的あるいは口頭的伝承を、両方で第三者から借用しているか、
ないしは一方が第三者を経由して他方に伝わる場合かが、当然考えられるのである。
さらにそれ以上に不可思議な謎がある。それは壽斎記に山本勘助が飛び出すことである。
すなわち長時亡命の後、二木氏は信玄に降伏したが、
長時がこの一族の擁護により、飛騨の国に隠れているという
山本勘助は信玄の命により
という記事である。(私注:山本勘助については、内容はともかく、実在は確認されたようである。下段注も参照されたし)
山本勘助は甲陽軍鑑によって吹聴されて初めて大物となった人物である、とは、諸家が考証したことである。
この人物に長時捜索のような大役を振っているのは、正しく甲陽軍鑑が壽斎記の背景になっているのである、
という推測が一通り成立するのである。
しかし、ここに至って、他のやっかいな問題に衝突することになる。それは田中義成博士の考証によれば、
甲陽軍鑑が世に行われるようになったのは、寛永(1624年〜)の頃である。
それなのに慶長十六年(1611年)の日付のある壽斎記に山本勘助が出てくる。
これを何と説明するべきか。
それには、次のいずれかの可能性を認めるほかないであろう。
(一) 壽斎記の山本勘助の項の混入を認めること。
しかしこの記事は系統の異なる笠系大成本、史籍集覧本、六萬石史料の異本のいずれにも出ているのであり、
軽々しく断定することは許されない。
(二) 甲陽軍鑑ないしそれに類似した書物は予想外に古く行われていたのであり、
壽斎記に現われる上の記事は、それを反映する。
(三) 山本勘助の伝説は、相当に古くからこの地方にあったのであり、そのことが壽斎記に現われ、
また甲陽軍鑑はそれを発展させたに過ぎない。
(二)(三)ともに甲陽軍鑑に関する従来の考証の一部を覆すことになるのである。
そして甲陽軍鑑がすでに慶長頃に行われていたとすれば、
岩岡家記にある「天文巳五月」も始めから軍鑑を借用した可能性が生じ、
これに関する問題は、比較的容易に解消することになる。
壽斎記に一箇所出るだけでは、山本勘助の話の事実性を認められないとすれば、以上のように考えるほかはない。
これはここで解決してしまうにはあまりにも難問であり、大方の教示を乞うこととする。
研究者が学問的功名心から不十分な材料で早く結論を立てることは、最も避けるべきである。
とにかく壽斎記と甲陽軍鑑とは、特に山本勘助によって、ある点までの親近関係を暗示されていると言えるであろう。
(私注1:上記は、もとより昭和10年の研究段階の話である。
しかし、文献考証というものを、一般向けに例示するという目的があるので、ここに掲出する)
(私注2:山本勘助は、山本菅助という宛名の手紙が、山梨県立博物館によって発見され、その実在が確認された。
2009年12月14日付けのウィキペディア訂正記事。誰かが修正してる。さらに2009年12月27日、日経新聞記事によって確認。
今井が首を傾げている、壽斎記の山本勘助に関する記事は、全くのデタラメというわけではなく、
実在した人物について書いていたということである。
大活躍かどうか、までは判定できない。また、手紙が偽作だったら、またわからないことになるが。
すると、壽斎は1611年以前に自分の知識によって書き、
甲陽軍鑑はそのしばらく後に書かれた、ということで、話は通る。が。)