現代文・今井『歴研法』6の3

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(ここから内容に関する批判)
可信性の批判

 明らかに借用史料であることが証明できるものについては、その可信性は問題にならない。
それは、独立した証拠力を持たないために、除外されるべきものである。
すなわち小平物語の可信性は、この場合においては、問題とならない。

 これは非常に誤謬の多い書物である。
しかも全体としては若干の史料的価値があり、戦国から徳川初年頃における武士の生活について、
興味ある証拠を提供しているのであるが、
上に見たように、この事件に関しては、その証拠力は皆無である。
一史料の価値は、固定的基準によっては機械的に定められず、
史料として採用される一々の場合について、個々に考えなければならない。
そのことは先に述べたが、これはその一例である。

 次に、「古文書」は遺物である。遺物としての可信性は、絶対的であることは言うまでもない。


(私注:上の「古文書は遺物である」の1文についての私の解釈。

「古文書が『ある事柄の結果として残ったもの』であることは疑いない。だからその『事柄の痕跡』としての信頼性は絶対的である。」

この解釈は、今井著p24「ベルンハイムは、『ある事柄の直接の結果として自然に残留しているもの』を『遺物』と呼び」から来た解釈である。

古文書の紙質、使われた筆記具等、これらはその時代の物質的残存物としてすぐに思い浮かぶが、
使用文字、用語、文法なども、その時代の物質世界で通用していた、時代を特定できる「物質的残存物」(「遺物」)である。
遺物としての可信性は絶対的である。

この文書内容が事実かどうかは、精密に考えれば、本当に首級を挙げたかどうかまでは、
わからない。確実なのは、「信玄サイドが認定した」ということでしかない。

しかし、古文書が本物であるならば、「戦闘があった」という事実の証拠にはなる。そういう「遺物」である。(?)

   物質的に、その事件の結果、その時代に残(遺)された物。紙。筆記具の痕跡。文字、用語。文章。
   今井は「遺物」の面を強調しているだけで、私の定義からすれば、
   書面の物体については「遺物」、内容に関しては「証言」。両側面がある。

     

「神使御頭之日記」「妙法寺記」の記事はともに同時代の人の見聞の記録である。
そのことの観察の最初の伝承()である。
少なくとも、この種のものまでは、いわゆる根本史料とするべきものである。

 そして日記でなく年代記であるから、記述の前後は不明であるが、
対象とする事件からの空間的関係から言えば、前者の可信性の方が大である。

 前者の筆者の居所は事件の場所より4里ほどの距離にあり、しかもよくその峠を望見することができる。
事件の印象が直接的である。
これに反し、後者の筆者は事件の場所より何十里をへだて、
ある日時を経てその戦に関する報告を得たのである。
経験がはるかに間接的であり、注意も前者ほど大ではあり得ない。
それゆえに錯誤の可能性が多くなり、公式的には、この方の可信性が前者より少ない、と見るのが当然である。

 以上を除けば、「壽斎記」「溝口」「岩岡」の両家記および「甲陽軍鑑」が残る。
これらには前述のように親近関係の疑わしいものがあるが、
それはこの場合なお未定であるから、一応その価値を考えなければならない。

壽斎記は関係者が60年以上を経た時の回想録である。
証言が事件の直接の経験である点から、すこぶる重んぜられるべきものである。
ただし、非常に長い時日を隔てているために、錯誤の可能性が大であることに注意しなければならない。

 溝口・岩岡の両家記は、直接関係者の子弟がその父兄から得た報告の再現である。
そして同じく長い年月を経ている。
経験が直接でないゆえに、形式的には錯誤の可能性はさらに大であると認めるべきである。
なお、上の3書は、ともに自家を宣伝する副目的を含んでいる。
その点から、いずれも同様の虚偽の可能性がある。

 これらの要素の他に、なお考慮に入れるべきは、陳述者の素質である。
すなわち、記憶力および正直さが問題になる。
長い年月を経たことである時、記憶力は無視できない要素である。
そしてこれらの要素を入れて考える時には、事件の直接経験者の証言が、
必ずしも、間接経験者のそれよりも、錯誤・虚偽が少なく、可信性が高い、とは、限らない。
それゆえにこのような性質のものには、決して簡単な機械的な基準を当てはめず、
その証言を採用する際、その可信性が制限的である点に十分な警戒を払って、
個々の場合について、吟味を加えて、その採否を決しなければならないのである。

 最後に、「甲陽軍鑑」は前述のように偽書である。
しかし偽書であっても史料としてまったく採用できないわけではない。
すなわちこれは文献的遺物として重要なものであり、その意味で、種々の場合に史料的な価値を発揮するであろう。

しかし証言として見れば、この種のものは、はなはだやっかいなものである。
その理由は方法的に次のように説明できるであろう。

(1)、この種の証言は確かにある歴史的事実を含んでいる。
それは著者が聞き集めた素材である。
しかしそれは著者の直接経験でなく他人からの伝承である。
伝承は人を経由するに従って変形する可能性を持つものである。
その最初の報告者が不明である伝承は、最も警戒を要する性質をもつ。
甲陽軍鑑のようなものは、内容に歴史的要素を含んでいることは明らかだが、
その部分も事件の極めて間接的な伝承で、錯誤が多いと思われる性質を持ち、容易に信用し難いのである。

(2)、この種の書物は、その一方、宣伝的な性質のものであり、また、広義の文学的作品である。
それゆえに、それは多分に利己的、または芸術的な目的からくる、虚構性を帯びている。
したがって、もしその中に若干の事実性があったとしても、それを作為的要素から(ふるい)にかけることが難しい。

これらの理由から、「甲陽軍鑑」のようなものを、事実の証言とすることは、躊躇しなければならない。
しかしこれが採用できないとなると、問題はなお残っている。
先に挙げた「二木」「岩岡」の2家記は、発生から言って外形的には史料として採用されるべき形式を持っている。
それなのに内容から言えば、その中には甲陽軍鑑との部分的親近を疑うべき理由があるものがある。

そしてもしこの親近が確実であり、しかも甲陽軍鑑の方が根本であるならば、
その部分についての可信性評価は、完全に転倒する。
それらの証言に価値を認めるのは、その形式的性質に相応する部分についてのみである。

上の2家記の中には、確かに特殊的記事があり、書物そのものとしては無視できない史料である。
しかし可信性が全体的には認められても、親近の疑いある部分については、問題はなお未決定である。

解釈

 以上の諸史料が何を証拠立てるかを、言語的にまた内容的に解釈するのである。
(一)古文書
上の古文書は天文17年7月19日午前6時に塩尻峠において武田信玄が何人かと戦ったことを的確に証明する遺物である。
これだけでは相手が誰であるかわからない。
しかしそれは他の史料によって小笠原長時であったと解釈できるのである。
卯の刻とあるので、6時頃すでに戦がたけなわであり、すなわち非常に早朝の戦であったことがわかる。

(二)神使御頭之日記 
 これが上の史料中、最も難解なものである。ことに「勝○に於て」としてあるのは、
その字が誤字を書いてそれを直した形になっていて、読みにくいためである。
その上字句にも「田部籠屋」、「御柱宮移にさはられ」、「西の一族」等、
神社関係および当時のこの地の社会的事情の基礎知識がないと理解できないものがあり、
その上文章も表現が断片的かつ不完全で、解釈が難しい。
       (私注:史料の文章をそのまま読むと、言わんとしたことと、表現された結果が、逆のようである
           すなわち「西方破、(ことごとく)放火候て」をそのまま読むと、前後関係からすると、文章の意味が逆である。)

その関係を十分に理解することは困難であるが、この戦に最も必要かつ疑いのない点をかいつまんで記せば、左のようになるであろう。

(1)4月5日、村上・小笠原・仁科(安曇)・藤沢(伊那)の諸豪族が同盟して、
下諏訪(私注:信玄の支配地である)まで侵入し、放火して帰った。
それで御柱祭は、4月15日に甲州方で曳いて、決まり通りにすました。

(2)6月10日、小笠原長時が下諏訪まで侵入した。
下社配下の人民だけで相手になって、多数の敵を倒した。
小笠原長時は二ヶ所負傷した。
御柱祭に支障を来たさせた神罰であると評判された。

  (3)7月10日、諏訪氏の西方の一族(西四郷の一族という)や矢島・花岡の諸氏が、
武田氏の支配に対して反抗し、反乱が起こった。
19日に、その反乱者側が破れ、みな放火された。
その信玄が小笠原長時を勝○に撃破し、小笠原長時側が千余人、戦死した。

 この「勝○」とあるのは不明であるが、これが古文書に塩尻峠の合戦とあるのを指すことは、疑う余地がない。
いま峠から隔たっている南方に「勝弦」という所があるが、それだろうかと思う。

 文句を上のように解釈した上で、以上の事実の推移を見れば、
その中にすこぶる多くの重要な着眼点を挙げてあることが注意される。

 4月5日信玄の支配地たる諏訪に信州南北の諸豪族の侵入があり、
小笠原はまた6月10日に侵入し、下社の人民と戦った、
7月10日には郡内に武田氏に対する反乱が起こったが、
7月19日にまったく鎮圧された。
その日塩尻峠に武田小笠原の両軍が衝突して小笠原が敗れた、という順序である。
 これは無論全部内的に連絡があり、事件が上の順序に展開していき、7月19日をもって大段落となったのである。

 小笠原の侵入と郡内に起こった反乱とはもちろん無関係ではないはずである。
また7月19日の記事は、反乱の失敗を先に、武田・小笠原両軍の衝突を後に書いてあるが、
それは反乱のことをその前に述べてあるため、後が先になったのであって、
両軍の衝突が古文書によってきわめて早朝であるところを見れば、
事件はむしろその逆であり、信玄は早朝、まず、長時を嶺上に強襲して致命的な打撃を与え、
一方郡内の反乱の掃蕩は、その日悠々と徹底的に行われたのであろう。

 そして信玄の来着はもとより7月10日以後、おそらく19日のわずか前と思われ、
また戦争が早朝であるところから見て、長時もその日に出兵してきたのでないことは明らかである。

 この史料は前述のように神事の当番を記した余白に当年の事件を書き付けたもので、
できるだけ短く断片的に要項だけ記入してあって、
事件の連絡を取ることが甚だ困難であるが、
内容的にはこの戦に関する第一の史料であり、これを正当に解釈することが、
この戦の種々の関係を理解する最上の鍵となるのである。

 妙法寺記・溝口家記・岩岡家記・甲陽軍鑑の上掲の文の文字的解釈は容易である。
いま内容的にそれらが証拠立てる必要な点をかいつまんでみる。
その中で甲陽軍鑑は可信性が乏しいのであるが、
なお部分的には事実を包含していることもあるだろうから、とりあえずこれも加えておく。

(三)妙法寺記
 天文17年7月15日、信玄は長時が五千の兵をもって塩尻峠に集まったのを早朝攻撃し、
これを全滅せしめた。
(松本地方からの五千はすこぶる大なる数である。後年松本藩の水戸浪士と戦った兵力は四・五百に過ぎなかった。)

(四)溝口家記
 天文十八年、長時が信玄と諏訪峠(塩尻峠の別名)に数刻戦ったが、
西牧・三村両人の武田方への内応によって長時が敗北した。

(五)壽斎記

 天文14年、長時が信玄の勢力を諏訪から一掃しようとして出陣したが、
信玄の出兵によって、その夜四ツ屋に駐屯し、翌朝塩尻峠に上って信玄の来攻を待った。
午前10時から戦闘が開始され、長時側は5回甲州軍の攻撃を撃退したが、
6回目に三村等の内応によって敗れ、長時の精兵は皆戦死した。

(六)甲陽軍鑑
天文14年5月23日午前10時、小笠原・木曽の連合軍は、塩尻峠を下って、
ちょうど出兵してきた信玄の軍を逆襲したが、信玄は連合軍を撃破して、629の首級を得た。

(七)地理
 地理が重要な史料であることは先に述べた。
地理は遺物であり、ただこれを解釈することによってのみ、史料となるのである。

 塩尻峠は筑摩諏訪両郡の境界をなす所で、標高千メートルをわずかに越している。
しかし諏訪湖面すら海抜約760メートルに達しているから、
事実上、峠は高くないのであり、江戸時代、中山道中ではむしろすこぶる小峠というべきものであった。
ただ甲府と松本との間においては、唯一の峠である。

 天文時代の峠は、徳川時代の中山道の数町南にあり、この山脈の最低所を通り、
現在古道(ふるみち)の名を残している。
信玄の根拠地たる甲府よりは約18里であるが、長時の林の城よりはわずかに5里余りに過ぎない。
長時の領地からいえば、ここが突破される時、もはや敵は直ちに城下に殺到する危険に陥るのであり、
すこぶる重要な防御地点である。

 峠の西側は長くゆるやかに、東側は短く急である。
それゆえにこの地点は、東方からの攻撃に対する防御において、はるかに有効である。
この峠が戦場になったことは、明らかに長時が防御的であり、信玄が攻撃的であったことを意味する。
それは両者の兵力に関係があるであろう。
信玄の兵力はすでに少なくとも甲斐一円から徴集されて来るに反し、
長時の兵力は大体わずかに筑摩安曇二郡の武士群に過ぎない。
それゆえに信玄が全力を挙げて来る時、長時が防御的になるのは当然である。

 峠が戦場となる時には、必ずしも道路によって行われたのではないであろう。
すなわち両者の戦略的必要から、時に道路を無視した展開をなすべきである。
御頭之日記に別の地名が出ているのは、それに関係するであろう。

史実の決定
 史料を基礎として史実が決定される。

 まず戦の日時である。それは「古文書」によって、またそれに「諏訪神使御頭之日記」「妙法寺記」を傍証として、
天文17年7月19日早朝であったことが決定される。

 妙法寺記には7月15日とあるがそれは史料批判において見たように、遠距離にあり、
また直接の観察でないために起こった錯誤であろう。
ただしこれは、19日という記述を、いつか15日と誤写した可能性もある。

 そして、古文書は幾通りもあるが古文書相互
すなわち遺物と遺物とが一致し、
また古文書と御頭之日記、すなわち遺物と証言とが一致し、
さらに御頭之日記と妙法寺記、すなわち証言と証言とが、大体一致することになる。

 他の一方溝口家記には天文18年となっているが、
これは1年の聞き誤りまたは覚え誤りであって、60年後の証言にはすこぶるあり得るであろう誤りである。

 さらに壽斎記・岩岡家記および甲陽軍鑑は、いずれも天文14年に戦があったことを報じている。
これは証言と証言との一致である。

しかしながら、これを採用することになると、
当然、戦は、同じ場所で同じ相手によって、二回行われたことになる。
それは、異なった二つの証言を、相矛盾するものとしないで、補足しあうものとする解釈である。
東筑摩郡誌のように、その扱い方をした編纂物もないではない。

それについて注意すべきことは、基礎的な史料において、
ただいずれかの一方を載せ、決して同時に両方を載せていないことである。
上に見たように、全部の史料がただ一回の戦を報告している。
これはすなわち「沈黙の証拠」であり、戦がただ一度であったことを証明するのである。

それゆえに、これは相補足しあうものでなく、相矛盾するものと見るべきである。
相矛盾する二つの証言は、必ず一方が誤りでなければならない。
そして17年の戦は確実な証拠によって立証されるのに反し、
14年の戦はその証拠に決して確実なものがなく、
また、同年の他の確実な事件、すなわち信玄の箕輪攻撃等と連絡しない。
ゆえに、14年は、17年を誤り伝えたと見なければならない。

 このことはすでに古人も気がついたようである。
たとえば甲陽軍鑑大全のように、武田三代軍記のようなものは、
まったく軍鑑を基礎にしているにもかかわらず、
この峠における天文17年7月19日卯刻の戦を記している。
これはこの戦の古文書を見て、これによらざるを得なかったのである
(ただし上の二書のこの戦の記事はまったく親近である)。
 
壽斎記に、長時が先に諏訪に出兵し、信玄の到来によって若干軍を回し、
この朝、峠に上って敵の攻撃に備えた、と記しているのは実情であろう。
双方の根拠地の距離の関係から見て、また諏訪におけるこの時の反乱から見て、それが当然であり、
その上壽斎が、当時若武者として一族と共に参加しており、この点までも誤る事は、まずあり得ないからだ。

 壽斎記などは、当事者の証言といえども錯誤があるであろうことは、先に述べたところである。
ことに言うまでもなくそれは80歳以上の老人の約60年前の思い出である。
それに錯誤があることは何の不思議もない。

 現に、筑摩郡平瀬の落城は、妙法寺記によれば天文20年であるのに、壽斎記はこれを18年としており、
信玄が伊那の箕輪を攻撃したのは、同じく妙法寺記によれば天文14年であるのに、壽斎記はこれを13年としており、
諏訪氏の滅亡は天文11年であるのに、壽斎記はこれを14年としているのである。

 研究法的に問題となるのは、14年の戦の有無でなく、それに関する諸証言の一致である。
壽斎記
はこの戦の際、諏訪の城代板垣信形が、
長時の応援のために天竜川方面に出兵した伊那勢に当たって、敗北したことを記している。
軍鑑
にもこのことが載っているが、相当に別個の立場から述べられている。
信形は天文17年2月上田原に戦死しているので、これが14年のことであれば差し支えないが、
同年7月19日の戦の時のこととなると、まったく辻褄が合わない。

 これらの不思議の一致点からして、さらに軍鑑と壽斎記等との親近関係の問題が、改めて注意される。

 しかし、全体的に両書を比較すれば、その一致はむしろすこぶる局部的である。
一例として年代を取れば、諏訪氏の滅亡を軍鑑は天文13年とするに対して、
壽斎記
は14年とし、桔梗が原の合戦を、前者は同22年とするに対して、後者は21年としているのであり、
年代が一致するのは、わずかにこの戦のみである。
しかもこの戦においては、年のみならず、巳刻という時間まで一致している。

 ただしこれだけならば両書のでたらめの暗号とも見られるのであるが、
そのほかの局部的一致、ことに前述の山本勘助によって両者のある程度の親近が示唆される。
しかし両者の親近関係を断言するには、その一致は余りにも局部的であり、例外的である。
要するに、天文14年説の根拠となる諸書の一致は史料批判の迷宮的難問を提出するものであるが、
14年の戦が誤りであることは、疑いを入れないのである。


次に確実なことは、信玄の勝利が決定的であったことである。
妙法寺記
の「悉、小笠原殿人数ヲ打殺シ、被食候」は誇大であったとしても、
御頭之日記に「小笠原衆上兵共ニ千余人討死候」とあり、
壽斎記に「御旗本衆能者共皆討死仕候」とあり、
長時が致命的な打撃を受けたことは明瞭である。
両者の兵数および戦死者の数は不明であり、記録の数字は必ずしも信用がおけないが、
小笠原方は安筑2郡を挙げる兵力をもって出兵して、ほとんどその精鋭を失ったのである。(以上肯定:と今井注)

 信玄の敵は小笠原・木曽の連合軍だったとは「甲陽軍鑑」の記すところであるが、
これは全然他の史料には現われず、長時は単独で戦ったと解されるのである。

この年、4月、村上・仁科、藤沢の諸氏が長時と同盟して諏訪に侵入したことは、
御頭之日記によって知られるが、それらもこの戦には参加しなかったと解される。

壽斎記に、仁科が下諏訪攻撃の半ばにして陣を撤して去ったことを
、長時の「御一代の御分別違いなるべしと申し候」と記しているのは、
最も可能性のある仁科さえ、この時、長時と行動をともにしていないことを示すものである。

長時方の敗因として、小笠原方の史料「溝口家記」「二木壽斎記」は三村等の裏切りをあげている。
これは相当に可能なことと見なすべきである。
溝口家記と壽斎記
には親近性が認められず、しかも双方の証言が一致しているのは、これを証明するであろう。
御頭之日記妙法寺記が沈黙しているのは、それらがすべて極めて簡潔に記して、決して委曲をつくさないためである。

これは武田方の工作によったのであろうが、
敵の力を分裂させることは信玄の慣用手段とも言うべきものであり、
この際にも十分あり得たことである。
ことに長時が要害に拠りながらあっさりやられたのは、それに関係があろう。

壽斎記に、長時が先に出兵し、信玄の到来によって若干軍を回し、
この朝峠に上って敵の攻撃に備えたと記しているのは実情であろう。
双方の根拠地の距離の関係から見て、また諏訪におけるこの時の反乱から見てそれが当然であり、
その上壽斎が当時若武者として一族と共に参加しており、この点までも誤ることは、まず、あり得ないからである。(以上蓋然:と今井注)

(史実の決定・終わり)