現代文・今井『歴研法』6の4

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歴史的関連の構成
 以上のように史実が確定もしくは推定を見たので、
これを当時の状態の発展の中に配合して、
その全体的関連を因果的に究明し得るに至ったのである。
そのためにそれに必要な事項を、年表的に列挙してみよう。

享禄元年(1528)〜天文元年(1532) 武田・諏訪両氏しばしば交戦
天文4年                     両氏和睦
同 6年                     諏訪氏、小笠原領に侵入
同 7〜8年                   武田・北条両氏しばしば交戦
同 8年                    小笠原・諏訪両氏和睦
同 9年5月                  武田氏、佐久を侵略
同   11月                 武田・諏訪両氏婚家を通ず
同10年5月                 武田・諏訪・村上、連合して小縣郡に侵入し、海野氏を追う
同   6月                  武田晴信自立、信虎引退
同11年7月                  晴信、高遠と同盟、諏訪氏を亡ぼす
同   9月                   晴信、高遠を破る
同14年4月〜6月             晴信、伊那の箕輪(藤沢氏)を攻める。質を取って和睦
同15年8月                  晴信、佐久の志賀城を陥れる
同16年                    晴信、二回信濃に出兵
同17年2月                  晴信、村上義清と上田原に戦って敗北
同   7月                  塩尻峠の戦
同   9月                  晴信、佐久の諸将を破る
同19年9月                  晴信、小縣郡戸石城を攻める
同20年11月                 晴信、筑摩郡平瀬城を陥れる
同21年                    晴信、安曇郡小岩嶽城を陥れる
同22年(1553)8月            村上義清、越後に亡命


 以上は妙法寺記その他によって、かいつまんで記した史実であり、当時の形勢の推移の輪郭をなすものである。

 それについて考察すれば、天文4年、その時まで敵対関係にあった武田・諏訪両氏が和睦し、
諏訪氏は小笠原氏に当たり、武田は北条氏と戦い、また天文9年・10年、佐久方面に出兵した。
10年武田信虎が海野氏を攻めた時、村上・諏訪両氏はこれと行動をともにした。
すなわち武田信虎は、天文4年より10年にわたって諏訪氏と交誼を結んで、
一方では北条に当たり、一方では佐久方面の経略に着手したのである。

 しかし信玄は天文10年自立の後、直ちに父の政策を変更し、
高遠等と同盟して、突如諏訪氏を襲ってこれを亡ぼし、その地を奪って信州経営の中心的立脚地をつくり、
さらに高遠を破り、また箕輪を攻めて、まず第一に伊那方面に進出し、
さらに天文15年以後3年にわたって佐久小縣方面に矛を転じ、
ついに村上氏の居城を()く形勢を示したのである。

 しかし、天文17年2月14日、村上氏の居城に近い、いわゆる上田原の合戦において村上氏と戦って破れ、
多くの武功の宿将が戦死した。

 この敗戦は妙法寺記に
「甲州人数打劣け、板垣駿河守殿、甘利備前守殿、才間河内守殿、初鹿根伝右衛門殿、此旁打死被成候而、御方は力を落し被食候」

とあるように、信玄自立以来の、無人の野を行くが如き信濃経営を、蹉跌(さてつ)せしめるものであった。

 従来信玄の鋭鋒に当たりかねた信州の諸豪族は、晴信(くみ)し易しとして、
いまやいっせいにこれを反撃し、その侵略地を奪おうとした。

 すなわち村上・小笠原・仁科・諸氏の同盟がなって、4月、諏訪に侵入した。
箕輪の藤沢氏は先に信玄に囲まれ質を出してわずかに和したが、
いまやまたその地位を回復しようとするに至ったものと解される。

 また小笠原長時は信玄の勢力がすでに山一つ彼方の諏訪に確立し、
さらに伊那に入って藤沢氏に迫ったので、小笠原氏はその羽翼をそがれる形勢となり、
すこぶる不安定な状態にあったことが察せられる。
したがって長時が、信玄の敗戦を利用して諏訪を奪い、
かねてそれによって武田方の勢力を信州から一掃しようと計画したのは当然である。
それが4月以後の3回もの諏訪侵入となったと思われる。

 諏訪諸氏の反乱も従来は武田氏の武力の前に怖れ伏していたのが、
いまやこの羈絆(きはん)を脱しようと試みたものにほかならず、
またこれには小笠原の手が大いに動いていたことは、
その反乱に際して長時が出兵していることによって、見て取れる。

 さらに妙法寺記によれば、この年8月、佐久の諸将が武田氏の武将、小山田と戦っている。
これも、その記事の書き方によって判断すると、
一度屈服したこの方面の諸豪族が、信玄が諸方に敵を受けるに至った機会を利用し、
連合して反撃を試みたことが察せられる。

 以上の推測は、全部は当たらずといえども、ほぼ当時の実情に近いと言っていいであろう。
要するに、上田原の戦において、武田氏の信州における地位が危険を感じるようになったことは明らかである。
諏訪が動揺し、佐久が動揺し、そして信州諸将の反武田同盟が成立した。
信玄はある程度まで、再び出直さなければならない立場におちいったのである。
そしてこの形勢を一変させたのが、この戦である。

 信玄は諏訪の反乱を聞いて急遽出兵し、ちょうど侵入していた長時を塩尻峠に撃破した。
小笠原氏は、家格的に、また地理的に、信州諸将の同盟の中堅である。
小笠原にして倒れれば、村上・仁科・藤沢の合従の如きは支離滅裂たらざるを得ず、
いわんや諏訪の反乱の如きをや、である。

 戦略的に見て、また政略的に見て、小笠原長時に打撃を与えることは、
この時の信玄にとって最も必要な、また最も時宜に適した処置であった。
それはあたかも一方の小石が囲まれた時、
それをしばらく放棄して、敵の中央の大石を攻め、これを殺して曲面を転換した碁戦の名手に比すべきものである。

 塩尻峠の戦によって、小笠原氏は針なき蜂となった。
信玄はこの方面の地盤を固めた後、9月、迅速に佐久に出兵し、
小山田を苦しめていた敵を殲滅し、田の口城をほふって、
「佐久ノ大将ヲ悉ク打殺ス、去程ニ打取其数五千許、男女生取数ヲ不知」(妙法寺記)
と記されているように、またこの方面の地盤を固めることに成功したのである。

 実にこの年は、信玄にとって失敗と成功と二つながら著しい年であり、
それ以後、侵略の歩みは着々として進んだのである。 


歴史的意義の把握

 信玄の戦争史において、また信州諸侯の歴史において、塩尻峠の戦の意義は大である。
この一戦によって信玄の信州併呑は決定的となった。
この戦にして勝敗を異にすれば、信玄は父信虎の代より約10年の間、
だんだんと蚕食したこの国の領地を、放棄せざるを得なくなったであろう。
彼は上田原で失ったところを、ここで回復したのである。

一方信濃の守護として名門を誇った小笠原氏は、この嶺上にその伝統的地位を失った。
これは実に小笠原氏の「長篠の合戦」である。
この戦以後の長時の運命は最も哀れむべきものであった。
すなわちこの峠は彼がやがて林の居城をすてて走り、
数年後にはうらぶれて他国に亡命し、あついは京都に行き、
あるいは越後に行き、最後に欧州会津において非業に死するまで、30余年の全国的放浪生活への門出であった。
ひとり小笠原氏のみならず、この戦の後において、信州諸豪族の意気はまったく消沈した。
彼らはただ塁を高くし、堀を深くして、専心、自己の居城を守るのほかなきに至ったようである。

 妙法寺記によるのも、天文17年以後川中島の対陣まで、この国における信玄の戦はもはやまったく攻城戦となり、
戸石のように、平瀬のように、小岩嶽のように、要害が次第に陥落したことを記録しているのみであり、
上田原・塩尻峠にような野戦の記録を見ない。
それはほとんど記録すべきものが存在しなかったことを意味するであろう。

 上田原に信玄を逆襲して万丈の気を吐いた村上義清も、その後孤掌鳴らすに由なく(一人では何もできない)、
天文22年に至り「此年信州村上殿八月塩田ノ要害ヲ引ノケ行方不知ナリ候。1日ノ内ニ要害十六落申候」(妙法寺記)
というような貧弱な没落をなしているのである。

 武田氏は名門ながら、信玄自立の時においては北条今川のような強大に比べてむしろ微力な存在であった。
それらに対抗する素地を作るにおいて、彼は信州にまことにあつらえ向きの舞台を見出した。
すなわちそこには中世的小勢力が割拠してなんらの団結もなく、甲州にとって最も抵抗力に小さい方面であった。
そしてこの地域を併呑するに及んで、武は東日本における恐怖となり、
上杉、北条、今川、織田、徳川の諸雄を圧迫するに至ったのである。

 彼の基礎的地盤開拓の工作において、この戦はすこぶる大なる役割を担ったものであった。
天文17年7月19日、青春28歳の彼武田晴信が、この峠の嶺上に立って、
英姿颯爽、はるかに日本アルプスの威容を望んだ時、
他日「関東の弓矢柱」として戦国の群雄を脅威した、輝かしい将来が約束されたのである。

(私注:今井著は昭和10年に書かれたものである。当時の年表を見ると、いかにきな臭い時代かがよくわかる。
題材としての戦記物は、時勢上、好まれて研究対象になったという一面もあるようである。
西洋史専門の著者が、わざわざ日本中世の戦記を題材に取り上げているところにも、カモフラージュがありはしないかと思う。)



付記
 天文17年7月19日は、西洋紀元の1548年8月22日に当たっていた。
しかしそれは当時のジュリアン暦であるので、これをその世紀の末から採用されたグレゴリー暦、
すなわち現行太陽暦に換算すれば、同年9月1日となる。
そして9月1日の東京における夜明けは午前4時39分、日の出は同5時12分であり、
この戦場のあたりではそれより5分あまり遅れるのであるから、夜明けは4時45分頃、日の出は5時18分頃である。
これは信玄がその前夜どこに宿営したか、すなわちその朝どこから軍事行動を開始したかを考えるのに、多少のてがかりとなる。

 信玄が甲州から出兵して来て、本営とすべき地点は第一に上原城である。
それは御頭之日記に此年二月十四日の上田原の戦のことを載せ、
「甲州ヨリ此方之郡代ニ上原城ニ在城候板垣駿河守殿討死、其舎弟室住玄蕃允殿三月ヨリ此方ニ在城」
と記してあるところから見て、
信玄が到着後ひとまずこの郡代室住玄蕃允の拠っていた上原城に落ち着くことが当然と考えられる。
しかし7月19日の朝、ここから出発したのではないことは推察できる。
6時頃に戦闘がたけなわであるためには、すでに少なくとも夜の二時前に上原城を立たなければならないからである。
上原でなければ、その夜の信玄の宿営地は下諏訪であろう。

 当時社寺は相当な軍事的勢力であり、諏訪神社下社が一武力であったことは、
6月10日に長時が攻めてきた時、「下宮地下人許出相」かなりな抵抗力を示していることで知られる。
そして下社は天文11年にすでに信玄の与党となって諏訪頼重を亡ぼすのを手伝っている。
その時のことを記した守矢頼真書留に
「同二十四日(今井注、6月)甲州高遠外宮方同心にて打入候由、酉刻につけきたり候」
とあるによって明瞭である。
まさに信玄は、諏訪氏を倒すのに、まず高遠および下社を薬籠中のものとしたのである。

 それで17年の4月5日に村上・小笠原・仁科・藤沢の連合軍が下社まで押し寄せて乱暴して帰ったのも、
6月10日に長時が下社を攻めたのも、
信玄の見方たるこの神社を脅かしたことにより、明らかに信玄に対する敵対行為であり、
下社はこの方面における武田方の最前線をなしていたと解される。

 信玄が上原城から前進すればこの線まで出るのが定石であろう。
下諏訪あたりに夜陣を張れば、少なくとも夜の白々明け、
すなわち天文学でこの日の夜明けと呼ぶ4時45分頃、
軍事行動を起こさなければ6時前後に戦うことはできない。

 下諏訪のあたりから恐ろしく早く進発したとして、ようやく卯刻の合戦というのに間に合うのである。
それならばその夜、小笠原方は壽斎記に「長時公は其日は諏訪の内四ツ屋と申處へ御馬を上げられ候」
とある通り、峠下に陣取っていたはずであるから、
両陣営は約一里をへだてて相対峙したことになる。
思うに両軍共興奮と緊張とに眠る間もない重苦しい一夜であったであろう。

 9月1日頃、山国は初秋の気がすでに十分に漂っている。しかし日盛りにはなお相当に暑い。
信玄は一つにはこの時候の戦争として攻撃能率の最も高い、夜明けの涼気さわやかな時を選んだものと解される。
ここに補助学科としての年代学の応用の一例がある。
以上は史料の解釈ないし史実の決定の項において述べるべき事柄であったが、
その記入を落したのでここに付け加えておくのである。

補正
 他の科学においても同様であると思うが、史学の研究においては、
各題目について一通り研究が終了しても、その中になお補正すべき不完全な箇所を残しており、
さらにいっそう考察すれば、それが次第に注意されて来る場合が多いのである。
史学の研究において補正を必要とする場合は、
ことに新しい史料が発見されたか、または一応見逃した史料が、新たに注意されてきた場合である。
先に引用した実例においても、その種の点で気づいたものがあるので、その類の補正も研究法の一例としてここに加えておく。

 天文17年7月19日の塩尻峠の合戦に関係する史料として、先に列挙したもののほかに、なお次の2・3があることに気がついた。

一、 安筑史料叢書古文書集成上巻に載せられた二三三号の文書に、

今十九卯刻、於信州塚魔郡塩尻峠一戦之砌、頸二ツ討捕之條、神妙之至候。
弥可抽忠信事肝要候、仍如件。
     天文十七戊申  七月十九日   晴信   内田清三殿


という先に挙げた数点の文書とほぼ同文の晴信の感状がある。
これは結論に何も加えないけれど、重要史料の補遺として加えておくべき一つである。

二、 諏訪史料叢書巻十五上者神長官家文書に集められた64条の天文22年11月の守矢頼真書状中に次の文句がある。

   去戌申七月十日之乱に御馬、同十八日に上原へ御着候時も長坂殿馬御使
   御祈祷之儀、被仰付候間、是も夜すがら、拙者一人にて致祈祷候處、相叶塩尻峠
   之一戦、思召儘候


 先にこの戦のことを書いた中に、信玄の諏訪上原への来着は7月10日以後、
おそらく19日のわずか前のことと思われると想定しておいた。
それがこの頼真書状によって、正しく先の推察の通り合戦の直前18日の到着であったことが知られる。
思うに武田軍はまったく急出陣まったく猶予なく嶺上の小笠原の本陣を急襲したものであることがわかったのである。

三、 同書同神長官家文書142にも神長官訴状覚書案

これは相当に長い文書でそれは全体として難解な点が多いものであるが、
その中に

   七月十九日卯刻に、甲○塩尻峠に押寄(ところ)ニ、峠の御陣ニ()
(いたす)
武田人、一人も無之(これなく)、過半()、不起合体に候

 という文句がある。この文書は諏訪社のいわゆる五官の一人たる神長官が、
同副祝と争い事があって、ずっと後になるが小笠原家へ訴え事をしたものの案文であることが察せられる。

 小笠原家復活後、上の文句によって甲州勢が7月19日峠の上の小笠原勢を、
いわゆる朝駆けによって急襲したさい、
小笠原方は全く用意がなく、早朝不意討ちを食ったものであることが判断される史料である。

 先にこの時のことを考証したのは一つは二木壽斎によったのであった。
それによって夜明けて諏訪峠に陣を取ったことを真に受けたが、この文書によれば大いに事情は変わってくる。
小笠原方は始めから嶺上に陣取っていて、不意に寝込みを襲われたことになる。
以上の点で両史料の言う所が、まったく矛盾しているのである。

 壽斎記は当時の体験者の記録であり、神長官の訴状はそれに反して戦の直接体験者ではないのであるが、
壽斎記の記事は老人の記憶によっており、宣伝的要素が多く、案外に信憑性が乏しいもので、
訴状は訴状というものの性質として、よい加減のことを言うべきでない、真剣なものであるはずであるから、
あるいはこの方が真実ではあるまいかと思われる。

 この訴状の書かれた当時、小笠原方にはよく事情を記憶している者があり、
いい加減なことは書けなかったはずである。
少なくともこの史料によって、先に記した嶺上の合戦の実情には、若干疑問を持たなくてはならないものがあると考える。
これに関連して、これは史料の価値にただ時、所、人というような形式的基準で、簡単に決定するべきではない、
一個の実例となし得ると思うのである。

 私は講座の本稿の末尾に「本稿成って後、最後の節に関して、
守矢文書中の守矢頼真書留および神長官訴状覚書案によって、
なお多少明瞭にし得る点、また考察すべき点があることに気づいたのであるが、
印刷後で間に合わなかったので、後の機会を待つことにした」と追記しておいた。
その補正は、その追記に応じたものである。(歴史学研究法・終わり)

(私注:最後に、神長官訴状の発見によって、今井は自らの事実認定を修正している。

これは、二木家記(または壽斎記)にもどって確認していただくとわかる。

以下のように、小笠原長時の軍勢は、信玄軍に対して奮戦したことになっている。
今井も、史実の決定の部分では、壽斎の証言は本当だろうと書いている。

しかし、どうやら本当は「みんな寝込んでいた」、というのが真相らしい、と、判断を修正しているのである。

二木家記(または壽斎記)

「長時公は其日は諏訪の内四ツ屋と申(ところ)へ御馬をあげられ候。夜明候て諏訪峠に御陣御取被成(なされ)候。

其日の四ツに軍はじまり申候。初合戦に晴信先手を切崩し、四ツ屋迄敵下し、首百五十長時の方へ取申候。
其日の内に六度の軍に、五度は長時公の勝に候。

このように、小笠原方は、夜明けには布陣していて、初戦で切り崩し、6回戦って5回までは勝っていた、と書いてある。

しかし、当事者ではなく、第三者の証言の発掘によって、判断の修正が図られたのである。)