応仁の乱「以前」の琉球貿易
吉田豊「中世堺の琉球貿易」堺市博物館報25号・2006より
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******p30より引用
「5、文正政変から応仁の乱へ」
少し遡って応仁の乱以前の琉球貿易について見てみたい。
この時期、琉球船が日本に来航したのは、
1403、1404、1414、1419、1420、1422、(以上、佐伯弘次1996「室町前期の日琉関係と外交文書」『九州史学』111)
1430、1431、1433、1436、1438、1449、1451、1458、1466
(以上、小葉田惇1939『中世南島通交貿易史の研究』日本評論社(1993年増補、臨川書店)
の計15回であることが、少なくとも確認できる。
1420年や1436年の文書には毎年と記されており、このころ琉球船は毎年やってきたと思われる。
(私注:1420年は海部氏が『満済准后日記』に登場する年である。(原文)
この琉球船の航路は、瀬戸内海コースと考えられているようだが、
なぜ、太平洋側のコースが考えられない、ということになるのだろうか。
1445年には、海部・兵庫間の往来56と考えられる根本史料もある。(兵庫北関入船納帳)
海部氏は1352年に京政権に参加しているのだから、(原文)
琉球関連情報は、すでに十分だった、とは、考えられる。
足利将軍への国書を持参する琉球国王使節船であり、九州止まりだった年もあるかもしれないが、
大半は畿内(船は兵庫、使節は京)まで来ていた。
しかし応仁の乱後はほとんどその来航が途絶えてしまう。
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その後、逆に、細川氏の意を受けた堺商人が、琉球に渡航するようになった。そして細川氏による利益の独占が図られた。
しかし大内や大友、島津などの九州・中国地方の勢力、博多商人などもからんでいた。
琉球船は日本に来て、中国および東南アジア産品を売って、「日本の特産品」を直接購入していたらしい。
それが、日本の方から琉球に出向く形になったのだ。
(私注:日本の特産品で非常に利益率の高いものが日本刀だったとしたら、
海部刀も可能性があるのではないか)