南京事件元兵士日記の、偽作の証明に向けての一考察 2012年12月13日UP
(日本古文書学会向けに書いた論文・2012年6月15日提出・12月13日返却)
* 古文書学会のコメントは、不採用通知だけの極めて形式的なものでした。
戦時中の、米軍による全国的な大空襲・原爆投下、
こうした一般庶民に対する無差別殺戮を米国内で容認する原因になったのは、
東京裁判の経過でもわかるように、戦時中に日本国民は知ることのなかった、
南京大虐殺の事実です。
これが事実でなかったら、米軍の日本国民大虐殺には正当性がなくなります。
極度に政治的な問題がからんでいるために、古文書学会というような存在では、
問題の処理ができかねるからであろう、と、私は勝手に解釈している次第です。
とにかく、多少は草書変体仮名が読める者として、
明治以降の日本人の筆記文字の変遷を、
証拠を示してその傾向を語ることができる者として、
秦郁彦『南京事件・虐殺の構造』中公新書掲載の元兵士日記の偽作の可能性は、
極めて濃厚である、としか思えません。
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〔考察のきっかけ〕
今回私が「奇妙な文書」として取り上げるのは、
昭和12年(1937年)の、いわゆる「南京事件」の証拠とされてきた、
手書き日記の1ページである。
その問題の日記、写真版「井家又一日記」が、
秦郁彦著『南京事件―――「虐殺」の構造』中公新書
に掲載されたのは、1986年(昭和61年)である。
この本は現在では増補版となり、その日記は131ページ上段に掲載されている。
(私が〔現物写真版「井家又一日記」〕として、インターネット上に掲載もしている。
現物写真版「井家又一日記」
私は2010年の秋に、初めてこの本を見た。
131ページ下段の、活字本文の日記の内容が中国人寄りに思われて、違和感を覚えた私は、
何気なく上段の手書き写真版を読もうとした。
しかしそれが予想外に整然とした文字なのを見て、いぶかしく思った。
次に冒頭の日付が画数の多い数字、いわゆる「大字」であるのに首を傾げた。
そして次に本文一行目、「しまった」(志満っ多)という変体仮名を見て仰天した。これはあり得ない!
*「志満っ多」があり得ない理由
この時から私は、突然、「南京事件と日本人の手書き文字」という問題に関わり始めたのである。
〔南京事件論争の盲点〕
昭和12年(1937年)の日本軍の南京占領に際し、大虐殺があったということは、
その直後から外国メディア経由で流された情報だった。
しかし南京事件というのは、大多数の日本人にとっては、
1946年に始まる東京裁判で、初めて知らされたことである。
そしてマスコミを賑わせた、いわゆる南京事件論争というのは、
さらに時を経た1972年の、日中国交正常化以降のことである。
これ以降、南京事件の研究が盛んになるにつれて、南京大虐殺を証言する元日本兵の日記が多数発掘された。
そしてこれを元に展開される、いわゆる「大虐殺あった派」の論法に対し、
逆の立場「大虐殺なかった派」からは、激しい反発があった。
広く国民一般に関わる歴史教科書の面から取り上げれば、
1982年、高校教科書の記述が、
「侵略」から「進出」に書きかえられた、と新聞が誤報した。
これをきっかけに、日本政府から、
近隣アジア諸国に配慮し、南京事件等には検定意見を付けない
との、いわゆる「近隣諸国条項」が出された。
その結果、1983年以降、教科書の南京事件の記述が詳しくなり、
10万・20万・30万以上という被害者数を記すものが増えた。
その後、それに反対する右派の動きも強化された。
簡単に言ってしまえば、このような経緯だったと言えると思う。
しかしながら、あれだけ反対派からの激しい反論があったにも関らず、
私は、「反対派が日記の偽作を証明しようとした」という話は、聞いたことがない。
私は、そもそも、そこがおかしいのではないかと思うのである。
戦場で長々と日記など書けるか。
そういう発言を複数見たからには、そう思った人もかなりいたのではないかと思われるのに、
なぜ、出てくる日記は偽作であると、証明することを思いつかなかったのだろうか。
なぜ偽作の証明という動きにならなかったのか。私は、大雑把に考えて、理由が二つあると思う。
一つは、歴史に関心がある人の多くが、偽作の実例や偽作の検討方法の知識を喪失したこと。
二つ目には、近世から現代までの間に、日本人の文字生活が激変したにも関らず、それが研究対象になっていなかったこと。
〔偽作の検討について〕
偽作の検討方法については、実証史学が盛んだった頃には、その気になれば簡単に目にすることができた。
日本人研究者のものでは、今井登志喜『歴史学研究法』東大出版が要領よくまとまっていた。
だが残念ながらこの本は、戦前の旧字体のままの出版が続いていたため、知る人の減少は止められなかったようだ。
その他の本も、時代の風潮には抗し難いものがあったらしい。
しかし今井著には、史料批判の方法の一つとして、偽作の検討方法が書いてある。
それを読むと、偽作の検討のためには、判定基準になるような「正しい史料」の収集が不可欠であることがわかる。
つまり、南京事件の証言史料が証拠として使えるかどうかを検討するためには、1937年前後の、正しい史料が必要なのだ。
正しい史料とは何か。日記の現物があって、その真贋を検討する場合、検討すべき要素は様々考えられる。
まず、その時代の「社会固有の物質的要素」としては、紙質、材質、製作技法、使われた筆記具など。
その時代の「人間固有の要素」としては、書風・文章形式・言葉などが考えられる。
これらのそれぞれの要素について、確実に当時のものであると言える史料と比較する。
これが、「当該史料が確かに当時のものかどうか」を判断する方法である。
しかし私はここで、後者のみによって「井家又一日記」を検討したい。
現物はないが、写真版はある。
書風・文章形式・言葉などの「正しい史料」があれば、
日記の写真版の検討が可能になるはずである。
それなら私の手元にある、戦前の本が使えそうだからである。
〔払底する史料蓄積を補うもの〕
この時代の手書き文献の、体系的な収集・研究などは、これまで行われてこなかった。
したがって、現物手書き文献の体系的収集というものは存在しない。
しかし、かろうじて間に合うのではないかと思われるような出版物があった。
それが昭和10年刊『手紙講座』全八巻(平凡社)である。
私は、大学で近世古文書解読に接した時から、近世と現代との間(近代、つまり明治・大正・戦前昭和)の、
手書き文字の変遷を説明する本がないのを、非常に気にしていた。
そしてたまたま手に入れた昭和10年刊『手紙講座』(平凡社)に、
著名人の手書き手紙の実例が170点余りあるのを見て、私は安堵した。
市井の凡人が、時代を追って手書き文書を揃えるなんて至難の業である。
なのに、ここには一応の網羅があったのだ。
1835年から1904年までの、約70年に渡る手書きの手紙実例である。
私はそこから、近代の手書き文字の変遷について、諸々の印象を確認した。
その中には、冒頭で述べた「井家又一日記」の変体仮名、「志満っ多」に対する驚愕の原因となったものも含まれていた。
〔私の「かな」への興味〕
ご存知のように、近世の手書き文書で残されたものは、漢文調で「かな」の少ないものが多い。
それがどうしてどのようにして、現代のような「かな」多用の文章になったのか。
古典で習う平安時代の「かな文学」や、平家物語のような「和漢混交文」は、江戸時代にはどこでどうしていたのか。
近世「候文」の中でちらりと姿を見せる変体仮名は、江戸時代の文化の中ではどのような位置を占めていたのか。
「現代ひらがな」はどうなっていたのか。
このように私の興味は尽きなかったけれども、一般書も研究書も見当たらなかった。
思いつくままに、江戸時代は往来物、それを引き継ぐように思われた明治・大正の手紙手本、と、いろいろ見て、
そして手に入れたのが昭和10年刊『手紙講座』だったのである。
〔手書き文字の激変〕
そのようなことをしている間に、私は、いろいろなことを考えた。
まずは、日本人の手書き文字の激変には、三つの要素が大きく影響したと思った。
それは活字印刷物の普及と、口語文運動と、明治33年(1900年)の「現代ひらがなへ統一」という小学校令、である。
また、『手紙講座』が出版された昭和10年には、
日常文では「口語文」「現代ひらがな」が主流、という印象ができあがっていた。
習字の手本や、あらたまった文章、和歌や俳句などの韻文は、
別格として例外的に変体仮名が使われる。そういう認識だった。
〔使われた文字への驚愕〕
だから南京事件証拠文献として掲示された日記の、一般兵士の「志満っ多」は、
「変体仮名」というだけで、珍しくて不思議だっただろう。
しかしこの場合、それ以上に、口語平叙文での、崩し方の少ない、こっくりとした漢字風の文字使いは奇異だったし、
「和歌に華やぎを添えるもの」「絶対に平叙文助動詞では使わない」という印象の文字が目に飛び込んできたので、
私は仰天してしまったのである。
それは、直前まで、飛ばし読みながらも延々と戦場の話を読み、335名を射殺した、
と、内容を読んだばかりの私には、目を疑うような文字だった。
その驚愕を元に全体をよく見ると、ますますその印象が強くなる。
というわけで、以下にその奇妙さを明らかにしていきたい。
〔変体仮名の使用数〕
ここでは、昭和10年刊平凡社『手紙講座』を基準に、今一度、「井家又一日記」の奇妙さというものを、明らかにしたいと思う。
まずは「井家又一日記」に使われた変体仮名の数と種類の多さについて述べる。 (現物写真版『井家又一日記』)
「に」音の14例の内、「尓」が13例、「丹」が1例。
「く」音の8例の内、二回折り返す草漢字からの「久」が8例。
「か」音の11例の内、「可」が5例。
「し」音の5例の内、「志」が4例。
「ま」音の3例の内、「満」が2例。
「た」音の3例の内、「多」が3例。
「り」音の2例の内、「里」が1例。
「な」音の1例の内、元の字は「奈」で現代ひらがなと同じだが、古い字体が1例。
「ら」音の3例の内、文字の配列上「羅」らしきものが1例。
「ひ」音の1例の内、「飛」が1例。
「井家又一日記」は、写真版の範囲では全体で334文字ある。その内、漢字が162文字、仮名が172文字である。
その仮名総数172文字に対し、「く」「な」の異体字を含む変体仮名は全部で11種類40文字である。
(注意:「異体字」という言葉について
以下、変体仮名の内、元の漢字が「現代ひらがな」と同じである文字を、私は「異体字」と呼んでいる。
元の漢字が「現代ひらがな」と共通で、現代人には、比較的身近に感じられるのではないか、という意味である。
書道関係者だろうか、戦後世代でも通じる?というわけか、たまに使われているのを見かけることがある。
江戸時代の漢字を指して使う「異体字」とは違う意味で、私独自の、「近代かな」分野用の「仮称」である。)
〔昭和一〇年・五十嵐力他監修『手紙講座』全八巻・平凡社〕
これを、昭和10年『手紙講座』の、著名人の手書き手紙実例と比較してみたい。
(平凡社『手紙講座』の174点の写真版は、すでにインターネット上にUPしてあるので、参照していただきたい。
「年代別・平凡社・手紙講座」
この手紙講座には、174人の著名人の手紙実例が掲載されている。それを適宜年代別
に整理してみる。年齢は、南京事件の1937年時で、満年齢で換算したもの。
1894年(明二七)〜1904年(明三七)10名(33歳〜43歳)
1890年(明二三)〜1893年(明二六)12名(45歳〜47歳)
1885年(明一八)〜1889年(明二二)27名(48歳〜52歳)
1880年(明一三)〜1884年(明一七)22名(53歳〜57歳)
1875年(明八) 〜1879年(明一二)19名(58歳〜62歳)
1868年 〜1874年(明七) 32名(63歳〜69歳)
1860年 〜1867年 25名(70歳〜77歳)
1835年 〜1859年 23名
分類困難 4名
これらの中には、極めて短い決まり文句の年賀状などもあるし、筆記年不明のものもあって、比較の基準として完璧とは言えない。
しかし、それなりに分量があるものも多いし、充分有用であると思う。
〔33歳から43歳の著名人との比較〕
まずは、明治27年(1894年)から明治37年(1904年)までに生まれた、10人の人々(手書き画像リスト画面)と比較してみよう。
1894年生まれの人たちは、小学校で「現代ひらがな」に統一された1901年に7歳になる。
この人たちは、「現代ひらがな」だけで勉強した最初の世代ではないかと思われる。
南京事件のあった昭和12年(1937年)には、33歳から43歳の人たちである。
井家又一の年齢はわからない。南京事件の証言日記を残した兵士たちは、
証言者に危害が及ぶのを避けるという理由で、個人を特定できるものは公表されないことが多い。
しかし実戦部隊の上等兵とされているからには、40歳には届かないと考えられる。
つまり井家又一は、変体仮名に関しては、この年齢範囲の人たちが書く文字とほぼ同じか、
実戦兵であることを考慮するなら、それよりも変体仮名は少ないくらいに見積もるのが良いのではないかと思われる。
しかしながら『手紙講座』実例では、南京事件の頃に43歳の佐々木茂索と38歳の宮本百合子が、
それぞれ「か(可)」一種類、41歳の吉屋信子が「に(尓)」1種類を使っているだけである。
異体字も1種類ずつであって、これを数えても、1文書に最大2種類である。
このように、この世代の人たちの変体仮名の使用例は、種類も数も極めて限定されている。
これらと比較すると、井家又一の11種類は尋常な数ではないことがおわかりいただけるだろう。
〔45歳から47歳の著名人との比較〕 手書き画像リスト画面
では、1890(明治二三)年から1893(明治二六)年の間に生まれた人にまで、範囲を広げたらどうなるか。
南京事件時には、45歳から47歳の12人の人々である。
「な」の異体字を現代人にも通じる文字として換算すると、
「現代ひらがな」の書き手は佐藤春夫・三上於菟吉・宇野浩二・今井邦子・細田源吉の5人になる。
一種類の変体仮名使用は土田杏村・芥川龍之介・直木三十五の3人。
これで8人が「ほとんど現代ひらがな」と言えるのではないだろうか。
比較的多く変体仮名を使っている例を検討してみよう。
吉川英治は「す(春)」「か(可)」「あ(阿)」「く(具)」の変体仮名。
そして異体字の「ま」、と、いろいろ使っているが、内容は病気見舞いで、相手に非常に気を使った文である。
岸田劉生は「に」「す」「か」が変体仮名。
「い」「な」「ま」に異体字を使っているが、内容は画会への入会者を斡旋してほしい旨の依頼文で、
これも相手に非常に気を使った文である。
この世代と比べても、井家又一が、読み手を予想しない個人日記に、
9種類もの変体仮名、2種類の異体字を使っているのは、尋常な数ではない、ということになる。
〔多用している人物〕
では、井家又一日記に近い頻度で変体仮名を使っている例を探したらどうなるだろうか。
口語文に限ると、九条武子・有島武郎・五十嵐力・竹本土佐太夫が挙げられる。()内の年齢は1937年時とする。
○九条武子(明20・1887年生・1937年時には物故者・仮に50歳)6種類の変体仮名に、異体字2個。
何か書いてほしいという依頼に対し、猶予が欲しいという趣旨、極めて丁重な文言。
○有島武郎(明11・1878年生・59歳)9種類の変体仮名に、異体字3個。
原稿料なしに、無断で自分の童話を出版されたという、出版社への苦情の手紙。
○五十嵐力(明7・1874年生・63歳)本文では5種類の変体仮名に、異体字2個。
和歌では4種類の変体仮名に、異体字2個。博士号取得の祝宴の礼状。
○竹本土佐太夫(文久3・1863年生・74歳)8種類の変体仮名。
義太夫節の太夫から、口語詩運動に力を入れた国語学者に対して出された、到着の挨拶と来聴依頼の文。
以上、検討してみてわかるのは、変体仮名が多い文章は、相手に非常に気を使った手紙ばかりだということである。
ちなみに、「志満っ多」の中の「満」の字は、実例174点の中では3点ある。
明治天皇のご生母中山慶子(生きておられたと仮定すれば1937年には101歳)の、儀礼を尽くした新年の祝い状、
無料入場券付の招待状(富士松加賀太夫・生きていれば81歳・浄瑠璃太夫)、
候文とセットの和歌の中(三宅花圃・69歳、歌人・文人)、
この三つである。このうち、
前二者は、元の字が想像できないほど変形の進んだ字だし、残りのひとつも簡略化の進んだものである。
こうした変体仮名の「満」は、かなりの年長者が、どちらかといえば、音よりは字の意味を気にして使ったと思われる。
つまり、「満」の字に「めでたさ」や「肯定」や「華やぎ」の意味を含ませていると思われる。
南京事件の一般兵の戦場虐殺日記に出てきたら、どれほどの違和感か、おわかりいただけるのではないだろうか。
〔凝り過ぎた文字〕
ここで今一度「井家又一日記」を振り返ってみよう。
これは、日本軍が戦場で無抵抗の捕虜を335人も殺したと証言する日の、日記の一部である。
日本人の用例から考えると、こんな日に自分用の日記に、これだけの変体仮名を使う必要性は、全く見当たらない。
と言うよりはむしろ、平穏な日常で他者に気持ちを込めて丁寧に書こうとしたのだとしても、これは「凝り過ぎ」と考えるべきだろう。
さらに言うならば、筆致・筆勢、字形の整え方、字配り、どれをとっても整然としている。
日本の著名人の日常手紙と比べても、その優れ方は目を引く。
これが、戦場の異常な日に、書けるものだろうかという疑問が沸く。
また、画数の多い数字の「大字」は、『手紙講座』では全く存在しない。
これも文字の凝り過ぎを示す例と言えるだろう。
「大字」は日本では通常、慎重を期すという目的で、金銭文書に使われることが多い。
これも戦場の場面で出てきたら奇妙である。
〔奇妙な文法〕
そしてこれだけ文字に凝っているのに、文法的におかしな点が目立つ。たとえば以下のような部分。
「新聞記者が此を記事にせんとして自動車から下りて来るのに日本の大人と想ってから十重二重にまき来る支那人の為」
「本日新聞記者に自分は支那売店に立っている時、一葉を取って行く。」
「外人家屋の中を歩きながらしみじみと眺めらされる」
これらは、日本語としては、かなりおかしい。間違うほど切迫した状況だったとするなら、
前記した文字の凝り過ぎに見られるような、余裕たっぷりの様子などは、何と考えるべきか。
想像される書き手の状況は、完全に矛盾している。
この状況を理解するには、この日記は、漢字を書くのは得意だけれども、当時の日本の筆記の実情はよく知らず、
日本語も不得意な人間が書いた、と仮定するほうがいいのではないだろうか。
あるいは、書き手自身が、本物の日本人の日記らしく書くことに、抵抗感があったために、
このような奇妙な文書ができあがった、という可能性も考えられる。
〔新仮名遣い・用語など〕
そしてインターネットの掲示板で他の方のお話を伺っている内に、私はさらに大きな指摘をいただいた。
それは、この「井家又一日記」には、新仮名遣い「いる」が使われている、という指摘であった。
その方は、「ゐる」が無いことだけで贋物であることの動かぬ証拠だと言われる。
戦前にはいかなる文書にも「いる」「いた」はなかったのだ、と。
戦前は、先生が「生きてゐる物にはヰマス、生きてゐない物はアリマスと言ひます」と教えたのだそうである。
読めればいいと思っていた私は、戦前の旧仮名遣いにすっかり疎くなっていた。
このご指摘には、大変感謝している。そしてこれで、井家又一日記が書かれた時期が、
少なくとも「戦後」である、という特定ができたと思う。
また、「井家又一日記」に使われている『捕獲』という言葉遣いはあり得ない。
当時の兵士は「鹵獲(ろかく)」という言葉を使ったものである、というご指摘もいただいた。
また一四日の月が「空高い」というようなことはない、という情景描写の作為のご指摘もあった。
以上、掲示板でご指摘をいただいた方々に、厚く御礼申し上げる。
〔未検討の課題〕
さて、私はまだ、「井家又一日記」で使われた「漢字」については、検討できていない。
漢字の崩し方でも、日本人には見られない特徴があるかもしれない。
しかしその検討となると、私の能力を超えてしまう。諸兄のご意見をお伺いしたいところである。
また、日記の現物がどうなっているのか、これは私には手の届かない問題である。
そして南京事件の時代の「社会固有の物質的要素」、つまり紙質、材質、製作技法、使われた筆記具などの検討は、
今後の課題と言えるだろう。
その他、たくさん発掘された日記の、現物が公開検討されるべきである。
〔結論〕
秦郁彦著『南京事件』中公新書の写真版「井家又一日記」は、300人以上もの無抵抗の人を殺したと証言する日の日記である。
これは、政界・言論界・国際社会を巻き込んだ長期に渡る激しい論争の中で、南京事件の証拠の一つとして扱われて続けてきた。
しかし、上記の検討(史料批判)を見ると、「この日記は、当時の日本人が書いたものではない」と言えるだろう。
そして書かれた時期は、戦後の新仮名遣いになってからである。
したがって、「この日記は、南京事件の証拠物件としては使えない」と言えるだろう。
しかしながら、これはまた、別の意味で重要な証拠となり得る。
25年以上もの間、南京事件の証拠物件として扱われ続けたという、その状況の証拠として、
新しい意味付けでもって、考察される必要があるということだ。
中国は南京事件の「虐殺数30万人」を譲らない。
それに対して、日本の「(大虐殺)あった派」の研究者は、最大「虐殺数20万人」だと言う。
いずれにしても、とにかく、双方の主張する虐殺数は桁はずれに大きい。
それなのに、証拠の代表例とばかりに一般書に掲載された一つの文書の奇妙ささえ、まったく指摘されなかったのだ。
私はこの論考の始めの方で、それには大雑把に考えて、理由が二つあると述べた。
歴史学が偽作の検討方法を失いかけていること、近代の手書き文書の研究蓄積がないこと、の二つである。
これらは専ら、歴史学という学問の基本部分の、大きな流れの問題だと言える。
しかし私は、それが一般社会に与えている影響を考えずにはいられなかった。
もし一般の人がこれらを知識として知る機会があったなら、
誰かがこの写真版の日記を見て、もっと早く、おかしいと思ったはずだ。
そして南京事件の専門家はどうして疑問に思わなかったのか。
私は見たとたんに疑問を感じたのに、怪しいとも思わず、確認しようとも思わない人々が、
南京事件の専門家として活躍している。これは不思議だ。
誰が、どういう人々が、この日記を本物であると断じたのか。
それはどのような意志と信頼の関係によって日本社会に流通したのか。
本物であるという判断の、責任のあり方の構造はどうなっていたのか。
今後は、それが問われるべきである。
昭和12年の実戦兵の日記の実情を知る人々ならば、誰でもおかしいと思いそうな奇妙な文書が一点、
本物と断定されて、証拠として流通する。
そこでは、強力かつ組織的な政治宣伝と、解読・翻字・活字印刷という流れで隠した情報操作とが、
互いに作用しあって存在してきたと言えるだろう。
これらを軸に、この問題の文書の奇怪さは、これまで無視され続けてきた。
ここには、手書き文字解読に関わった人々の、
「南京事件そのものを捏造しよう」という、強い意志が読み取れるのではないだろうか。
たった一つとはいえ、その尋常でない奇妙さは、上述した通りである。
これを本物として押し通す「専門家」は、その他の資料を収集する際に、真偽の検討をするだろうか。
私には、彼らがそのような検討をするとは、とても思えない。
出てきた証拠資料はすべて、どれほど奇妙な点があっても、
本物として押し通すのではないだろうか。
だから私は、彼らの手によって収集されたその他の資料も、すべて、疑ってかかる必要があると考える。
そして「井家又一日記」が、日本人が書いたものではないとすれば、中国人が書いた、ということが疑われる。
しかも戦後である。これは、上記のような国内の問題ではない。
私たちは、元兵士の日記が発掘されるようになってから、言論界や政治や国際関係がどのように動いたか、
さらには教育現場で何が教えられたか、思い出す必要があるだろう。
そして南京事件は、日本人にとって、1946年に始まる東京裁判(極東国際軍事裁判)で、
初めて浮上してきた問題であったことも、思い出す必要があるだろう。
どこの誰が、何の目的で、どのようにして作成し、それをどうやって日本に持ち込み、証拠として仕立て上げたのか。
この状況についての考察は、また別の視点から、新たな研究が必要となるだろう。ここはこれで、ひとまず筆を置くことにする。
〔論点整理のために〕
論文で私が指摘している、井家又一日記の、
偽作と疑われる要素の概略は、以下の点です。
@戦場日記にしては、文字の書き方が整っていて丁寧である。
使用文字が凝っていて、書くのに時間がかかる文字を大量に使用している。
A冒頭の日付が大字である。(慎重を期す目的で、金銭関係文書等で使われるもの)
B南京事件の昭和12年頃には、元兵士として想定できる「年齢」の人物が、
「個人的な、口語の日用文」で、11種類40文字という、これほどの率で変体仮名を使った例はない。
C戦前の仮名遣いでは「ゐる」と書くしかなかったのに、戦後の仮名遣い「いる」が使われている。
D14日の月が夕方に空高いという描写はありえない。ここは作文であることがわかる部分。
兵器「捕獲」という言葉は軍では使わなかった。兵器「鹵獲」しか使わないものである。
E日本語文として、かなりおかしな文が目立つ