昭和10年平凡社刊『手紙講座』全1〜8巻
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昭和10年平凡社『手紙講座』採録の手紙実例の書き手と文字について、説明をUPしました。
書き手は全巻で170名余で、政治家・軍人・文化人と、多岐にわたっています。
『手紙講座』第1巻から第4巻まで
『手紙講座』第5巻から第8巻まで
昭和12年(1937年)12月16日の、南京事件元兵士の「井家又一日記」の文字使いについて、
その違和感を説明する必要がありましたので、そのためのUPです。
この『手紙講座』第1巻の部分の説明で、
江戸時代に「ふりがな」で多用され、その簡略さのために、
明治以降も生き残った、いくつかの簡略変体がなについて、
説明しました。
ここで、江戸時代の「かな」(つまり変体がなをも含む)の「登場場所」について説明しますと、
「かな」は、まず板本(木版刷り)では、
寺子屋教科書である「往来物」と呼ばれる一群の本、古典文学、文芸物、読み本、
また、かわら版などの、本文やふりがなに登場します。
それらの中で、明治以降も、庶民的な日常文で生き残った「かな(変体がな)」は、簡略な形のものです。
全体を通して言えるのは、「口語文」において、
「井家又一日記」並みの、簡略化されていない「変体がな」を使っているのは、
第1巻の有島武郎の例と、第8巻の最後に出てくる竹本土佐太夫の例くらいです。
有島武郎の例は、自分の文章の無稿料・無断使用について出版社に苦情を述べたもの。
学習院・ハーバード大学・ヨーロッパ旅行と、高度な知見の持ち主です。
この手紙での簡略化されていない「変体がな」使用は、かなり屈折した使い方と思われます。
竹本土佐太夫は、口語詩運動・国学国字問題研究者にあてての挨拶で、手紙手本そのままの、
高度な礼法にのっとった書き方です。
どちらも、意図は違いますが、相手に非常に気を使った手紙です。
「かな」に草書の漢字を使うのは、書道では、華やかさの演出、文の「格」の上昇
みたいに受け止められていると感じています。和歌・俳句の書でよく使われるのは、そのためでしょう。
だから、戦場での「井家又一日記」に草書漢字風の字が「かな」として出てくると、違和感が強烈なのです。
明治34年(1901年)は、現代ひらがな使用の固定化が一段と進むきっかけになった年です。
1894年生まれの人は1901年に小学校へ入学する、とすると、
それ以前に生れた人とそれ以降に生れた人では、
大体の傾向で見ても、やはりかなり違うと思われます。
昭和10年(1935年)に、
現代かなを習った世代ですでに著名人になっている人というのは、
40歳前に名前が売れていなければならない。やはり少ない。
大体、1900年以降は、周囲の活字の世界が、
完全に現代かなに統一された世界になってきています。
小学校から、公式には現代かなしか習わない状態ですと、
「現代かなよりも、変体仮名の方が簡略である場合」にのみ、
使用頻度が高くなる傾向があります。
しかし、「井家又一日記」では、簡略化されていない変体がなが使われています。
そして「拾貳」という、日常では使わない画数の多い数字(大字)が使われています。
だから「井家又一日記」は、異常に丁寧だと言えます。
それなのに、文章が日本語としておかしい、のです。