『徳島県の歴史』山川出版社・2007年、室町時代の記述

  *** 『徳島県の歴史』の記述に、
              時代的にどこに「海部」の史料が重なるかを示した***

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p95より

初代阿波守護については、確定する史料は存在しないが、
幕政で引付頭人(ひきつけとうにん)をつとめた細川和氏とみられる。

和氏の死後、弟の頼春が守護職をつぎ、観応3(正平7=1352)年に京都七条大宮にて戦死するまで守護をつとめ、
幕府の侍所別当(さむらいどころべっとう)・引付頭人にもついた。
                      私注:1352年東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)の細川顕氏(あきうじ )の命令書で、海部氏が前線に向かった。
                          頼春はその後に発生した戦いで戦死。


その後、子息細川頼之(よりゆき)、弟細川頼有、甥細川義之(よしゆき)と継承されていき、
阿波守護家はこの義之からはじまる。

細川頼之の子息頼元管領に補任され、

細川氏の嫡流家は、摂津・丹波・讃岐・土佐の4カ国の守護であると同時に管領をつとめる家で、

代々右京大夫(うきょうのだいぶ)に補され、左右京職(きょうしき)の唐名が京兆(けいちょう)であることから
京兆家とよばれた。
                          私注:1392年相国寺供養記(しょうこくじくようき)』原文では、海部氏は、管領細川頼元の隋兵として出てくる。
                              つまり、細川氏嫡流家の家臣?
                                 
京兆家が上屋形(かみやかた)とよばれたのに対して、

阿波守護家(しもの)屋形とよばれ、細川氏の守護家の中でも、重きをなす家であった。


室町時代の守護は、京都に居をかまえ在京して幕府政治にたずさわった。

阿波守護は室町幕府組織のなかでどのような位置を占めていたのであろうか。

応永30(1423)年正月の室町幕府評定始(ひょうじょうはじめ)を記した満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)では、

将軍足利義持の御前に着座した、管領畠山満家ら4人の御相伴衆(ごしょうばんしゅう)についで、
供奉衆(ぐぶしゅう)の筆頭に、阿波守護細川満久(みつひさ)があげられていた。
                          私注:応永27(1420)年、満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)では、将軍足利義持が切り出した話題の中に、
                              
海部氏が出てくる。

時期は20年ばかりくだった『文安年中(1444〜49)御番帳(ごばんちょう)』には、御相伴衆として、阿波守護細川持常(もちつね)
の名がある。
                          私注海部が全体で10位、太平洋側でダントツ1位の記録を残した兵庫北関入船納帳(ひょうごきたぜきいりふねのうちょう)は、
                              文安2年(1445年)の記録である。

当時の史料には阿波守護は御相伴衆としてしばしば登場する。

このように阿波守護家は、足利将軍を補佐する幕府重臣の一人として、幕政に深くかかわる有力守護家であった。


 細川氏の家臣団の特徴は、細川氏がもとは三河細川郷という小規模な領主であったために、譜代の家臣という者は少なく、
南北朝内乱をつうじて形成された点である。

そのために、四国をまかされた細川氏の重臣には、阿波・讃岐の有力武士が登用された者が多い。

したがって、両家の奉行人に飯尾氏がみえるように、阿波守護家と管領家との家臣に同姓の武士も少なくない。

阿波の有力武士は、細川氏の家臣として京に進出し、阿波守護家の活動をささえた。

将軍足利義満がみずからの権力と権威を世に示すために盛大に挙行した明徳3(1392)年8月28日の
相国寺落慶供養においては、

福家氏も指摘するように管領細川頼元の随兵中に、小笠原氏・柿原氏・海部氏などがおり、

                      ここ「相国寺供養記」の原文では、順序が違う:小笠原・海部・由木・柿原の順 
                          1392年相国寺供養記(しょうこくじくようき)』原文
阿波の武士のなかには管領家の被官として活躍し、京の晴れ舞台にも参加する者がいたのである。

なお、守護細川氏の領国阿波の支配組織については、複数の重臣を守護代として阿波に配置し、
統治を行った。

これについては次節の三好氏の台頭の項で述べよう。