私見:スペイン太平洋航路と日本人:概説
                               
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1、ヨーロッパ勢が来る前の、アジア海上交通

                                                     

1300年代半ばから、東南アジア海上では、
中国・の朝貢政策に沿って、琉球が圧倒的な力をもって、盛んに活動していた。
琉球は日本にも来ていた。     (応仁の乱以前の琉球貿易)

日本も、勘合貿易という形で遣明船を出していた。

1445年時点の、瀬戸内海を中心として太平洋側に至るまでの、
神戸を中心とする、日本の盛んな海運を示す根本史料が出ている。(太平洋側海運の史料「阿波・土佐の主要港」

1467年に応仁の乱が発生した時、大内氏が瀬戸内海を封鎖したため、
幕府船細川船が、初めて太平洋側の航路を取ってへ帰った。
この航路を「南海路」という。               (勘合貿易と南海路)

以後、徐々に南海路が盛んになり、琉球船が日本に来る代わりに、
堺商人の琉球渡航が増加。(1471年島津氏の史料が存在する)

応仁の乱以後の主たる高額輸出品は、膨大な量の日本刀であった。琉球も大量の日本刀を扱った。
                                 (遣明船貿易の日本刀)

    1511年、ポルトガルによってマラッカ(現在マレーシア)が陥落。

    この時に、このポルトガル勢に参加していた、マゼランが書いた報告(1518年)がある。
    このマゼランとは、後にスペイン船で世界周航に挑戦する人物と同じである。

    その報告によれば、毎年、マラッカに3,4隻の琉球船が来る、というのだ。

    琉球人は、「レキー」「レケオ」「レキオ」と呼ばれ、それがそのまま「刀剣」を指す言葉に転用されたりもした。

    また「ゴーレス」という、東南アジア現地語で「刀剣」を意味する言葉で呼ばれた、腰に刀剣を二本差しする人々もいて、
    その人々は「琉球人」と同じである、とされたりもした。

    両者は混用され、しばしば混乱を招いたが、私は、「ゴーレス」は日本人説を採る。
    つまり1511年には、すでに日本人がマラッカに到達していた、と考えるのだ。

                       (琉球に渡航した堺商人などには、琉球経由で東南アジア情報が伝わるわけだ。
                        どうして自分で船を仕立てないということがあるだろうか。)


1521年、マゼランがフィリピン到達。同時に太平洋を東行する航路の探検が始まった。

1523年、中国の寧波で、大内氏と細川氏が衝突するという寧波の乱事件が発生。
          細川氏堺商人の勢力は、遣明船貿易から締め出される。

          つまり、太平洋側の南海路を使っていた1勢力が、中国との交易から締め出されたのだ。


ここに、南海路勢力が、フィリピンに進出する動機があるのではないだろうか。(「1500年代フィリピンの産金情報」



2、日本人の手引きと日本への寄航の可能性について

              
マゼランスペイン船フィリピンにたどりついたのは1521年

スペインは以降、フィリピンを出発して、太平洋を東へ向かってアメリカ大陸へ戻る航路を探し続けた。
しかし逆風・逆海流に阻まれ、それに成功したのは、40年後の1565年だった。(5回の東行路探検航海)

その間、ポルトガル人が1543年に種子島に上陸し、
1544年、ポルトガル人に混じって、スペイン人ペロ・ディエスも日本にやってきた。

このペロ・ディエスという人物は、その後、スペイン遠征隊長ビジャロボス(ビリャロボス)に、会っている。
ペロ・ディエス情報

ビジャロボスは、メキシコを出発してフィリピンに着き、アメリカ行きの航路を探して失敗し、
ポルトガルの捕虜になっていた人物である。

スペイン遠征隊員生き残りの人々は、インド洋経由でスペインへ帰還した。
スペイン本国やメキシコに、ペロ・ディエス情報(日本という国があって、ポルトガル人も行っている)
を伝えている。(エスカランテ報告)

1565年ウルダネータ発見航海は、フィリピンの北に日本がある、ということは、
少なくとも知っていて敢行されたもの、と考えるべきである。

それなのに、上陸を全く考えなかった、というのは、水・食料の補給なしの危険行為である。

1565年の太平洋・アメリカ行き航路・発見航海は、6月1日から10月8日までの4ヶ月となっていて、
この間、無寄航だったことになっている。

ほぼ毎日記録したとする、詳細な航海日誌も、私ホームページにある。
ウルダネータの発見航海
黒潮に乗って、日本近海を、東北の陸前高田市や大船渡市の緯度まで遡上したことになっている。
それ以上に遡上したとする本もある。

この航路発見の経緯、日本近海を北上するコース、要した航海日数などから、

日本人が手引きして、日本に寄航しながら航海し、それ以後の鎖国時代も、
密貿易地点が在り続けたのではないか、というのが、私の見方である。

    行き当たりばったりで日本に行けば、すぐに他の日本人に知れ渡る。
    しかしこの場合、寄航したとしても、他には情報が漏れなかったということなのだ。

    もし寄航したとしたら、日本人の手引きなし、とは、思えない。